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憂鬱

お祭りの季節になると私は憂鬱だった。言うまでもなく母は露店が大嫌いだった。商店街の方が出店しているようなジュースを買うくらいは許されることもあったが、露店は絶対に許さない。他の子供たちは、水飴やソース煎餅を食べながら、わいわい楽しそうに絶対に当たらないくじ引きをして一喜一憂している。羨ましかった。でも母は「ちゃんとした家の子供は、あんな不衛生なお店で体に悪いものを買い食いしたり、詐欺みたいなお店のくじ引きをしたりしません」とか言う人だった。

こんなだからクラスの友達とみんなでお祭りに行こう!みたいな時、気が重くて仕方がなかった。母にお願いしてお金をもらわないといけない。母は毎回すごく嫌な顔をして、露店の悪口を散々言って、渋々100円くらいしかくれなかった。お友達はみんな1000円とか持っていくのに、100円ではほとんど何も買えない。確かザラメのついた飴玉が最安値の30円くらい?大きな飴玉を舐めていると、他の皆が爆食いしている間、食べない口実ができて良かった。その後50円くらいのソース煎餅をゆっくりゆっくり食べた。友達が散財している中、私は色々誤魔化しながら、ただただ時間が過ぎるのを待った。

私にはそもそもお小遣いなどは無く、母が気に入ったごくわずかな物だけ買ってもらえるシステムだった。ということは、ほぼ何も買ってもらえなかった。反対に母が気に入ったものは、私が全く欲しくなくても買い与えられた。海外製の高い知育ゲームなどだ。そしてなぜ喜ばないのかと怒られるまでが、お決まりのパターン。

それなのに、みんなで夏休みプールに行く帰りにアイスを買いたいとかは絶対に許されなかった。「買い食いなんてみっともない!やめてちょうだい!大体ちゃんとしたアイスが家にあるんだから、帰ってきてうがいをしてから食べれば良いでしょ!」と言われた。母が言う”ちゃんとしたアイス”とは、ラクトアイスや氷菓ではなくアイスクリームのことである。プールの自動販売機で売っているようなアイスはどこのメーカーのアイスかもわからない、母の価値観ではちゃんとしたアイスでは無いとのことで食べてはいけなかった。こういう母だったから、駄菓子なんてのはもってのほかだった。

唯一の救いは、母はお金に対してそこまで細かい人ではなかった。おつかいのお釣りや電車賃のお釣りなんかは特に確認もせず「あなたのお財布に入れといて」と言う人だった。なので私はそこから小銭を少しずつ集めていた。母のお財布からお金を盗る日だってあっ。小心者の私はバレるような事は絶対にしなかった。母の財布の小銭入れが重い日に100円を盗る程度。自分の50円と母の財布の100円を交換したり、10円や1円だけ盗るような日もあった。

ある日、私は道端で500円を拾った。真面目な私は近所の交番に届けた。するとお巡りさんが、「保管期間の間に落とし主が現れなかったら君のものになるから、この日にまた来ると良いよ」と教えてくれた。数ヶ月後、交番を訪れて500円は私のものになった。それ以降、私は道端の小銭を探すようになった。例え1円でも交番に届けた。顔見知りのお巡りさんは、「また届けに来たの?」と苦笑していた。今思えば、貧しい家庭の子でもないのにお恥ずかしいことをしていたと思う。でも当時の私にとって小銭は必要だった。友達と遊びに行った時、みんなと一緒にひとつでも駄菓子を買えるように、アイスやジュースを買えるように。

母の小銭を盗み、後々頂くつもりで落ちている小銭を交番に届ける幼い私の心境を想うと、なんとも言えない気持ちになる。そもそも私は平気で嘘をついたり、悪気もなく親のお金を盗むような事ができる精神の持ち主ではなかった。だからいつも後ろめたさを感じていたし、友達と買い食いした時も母を知る誰かに見られていないか、告げ口されるのでは無いか、心配で仕方なかった。本来、美味しいはずのお菓子が喉に詰まった。全く上手く飲み込めず、味などしない状態だった。どうせ毎日怒られるにも関わらず、私は四六時中、母に怒られる心配をし、なんと言い訳しようと考えている子供だった。私が勉強ができなかったのはまぎれもない事実だが、家での緊張感や母との関係の葛藤が、学校での私の集中力を奪っていたのも、また事実だと思う。

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