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「センス」という名の呪いを解こう

「ダサッ!」「変なの~」
相手が不意に発した言葉が、心に鋭く突き刺さる。

ファッションには興味はなかったし、家ではゲームばかり。
自分には、特別なセンスなんてなかった。

これといって自分を語れるような何かすごいスキルを持ち合わせているわけではなかった。そのせいか、これで本当に生きていけるだろうかと、当時は小学生ながらに不安になっていた。

今となっては、誰でもできるような機械的な仕事は、どんどんAIがやるようになってきてる。
これからの時代には「創造力」や「直観力」が大事だと言われても、戸惑う人も多いだろう。

「センス」って一体、何なんだろう?

「センス」という言葉に呪われていた

学校には、キラキラした子がいた。

展覧会で賞を取るような絵を描く子、
歌ったり、楽器を演奏するのが上手い子、
書道展に出展するほど美しい字を書く子、
運動神経がよくて、スポーツに没頭する子・・・

そんなキラキラした子と自分を比較して、ダメな自分に絶望していた。

絵を描くにしても、きれいに線を引けずにガタガタの状態で配色も下手。
音痴で歌うのも恥ずかしいし、楽譜もろくに読めない。
不器用なものだかから、字も下手だし、運動神経もよくない。

センスというクリエイティブ系の才能は、神様から選ばれた一部の人にのみ与えられる才能だと、ずっと思っていた。

「自分は、選ばれなかったんだ」

絵、音楽、スポーツ・・・どれか一つくらい当たりがあってもいいだろうと思っていたが、あろうことか全部ダメ。

さらに「センス」という言葉のどこかフワッとした感じが、私を苦しめていた。
あまりにも感覚的過ぎて、何をどのようにすれば上達できるのかが全く分からない。

私にとって「センス」という言葉は、呪いでしかなかった。

最初に呪いを解いたカリスマ講師

人生の転機が訪れたのは、高校生の時だった。

当時は理系の学部に進学するために勉強していた。
いくら理系の学部を受験するとはいえ、センター試験で国語を受けるのは避けては通れない。

国語なんて、小学校の頃から嫌いだった。
もちろん、作文するのも苦手。

長文読解問題なんて、書かれている内容をまともに理解できないものだから、いつもそれらしい答えを適当に書いていた。
当然、まともに当たるはずもない。
点数はいつも、ボロボロだった。

国語の問題の解き方など、まともに教わった記憶が無かった。
これではまずいと本屋さんへ行き、何か解き方で参考になりそうな本はないかと本棚を漁った。

たまたま目についたのが、現代文のカリスマと呼ばれていた出口先生の本だった。

「国語には、公式がある」

そう書かれてあるのを見て、思わず「本当に?」と疑った。
ただ実際に出口先生の本で勉強してみると、論理的で分かりやすい解説で、理系の自分とは相性が良かった。

なにより公式という形で解き方が一般化されて体系的にまとめられていたので、多くの問題に対応できた。

普通に学校で教えられているやり方では、解き方が一般化されていない。
そのため、一つの問題を解けるようになっても、別の問題を解く時には解き方が分からずに解答不能に陥ってしまうのだ。

カリスマ講師の出口先生の力は、すごかった。
急激に読解力が上がって、国語の点数が良くなっただけではない。
論理的に文章を組み立てられるようになり、作文力も上がった。

これこそが、作文が苦手であったにも関わらず、今こうしてライターとして活動できている理由なのだ。

思い込みをする先生たち

出口先生は、学校や塾の先生を相手に講演もされていたようだった。(今も続けられているかどうかは知らないが)

「国語なんて、センスだろ」と思い込んでいて、そんな国語をどうやって教えたらいいのかと頭を抱える先生たちにとっては、まさに救いの神だろう。

学校で作文を書かされるときに、「感じたままを書きなさい」と教えられた人も多いはずだ。
センスというフワッとしたものをどう扱っていいのか分からずにカリスマ講師のもとに駆け込む先生の多さは、これまでいかに教え方が曖昧にされてきたのかを物語っていた。

教える側の先生がこのような状態の人が多いわけだから、書き方を理論として一般化させ体系的に教えることができる先生というのも、一握りしかいないのではないだろうか。

ただ、書き方を理論的に教え過ぎてしまうと、まるでハンコで押したかのような似たような文章が量産されてしまう。
型にはめ過ぎてしまうと、書き手の個性が出なくなってしまうのだ。
それだと読み手としては、読んでいて面白くない。

だから何度も添削指導を繰り返しながら、なんとなく感覚をつかめるようにするというのが一般的な教え方なんだという気がした。

初めて知ったセンスの正体

センスという漠然とした分かりにくいものを、ちゃんと言葉に表現して整理する。そうれば、誰でもやり方を理解できて、実力を身につけられるはずだ。
それにも関わらず、どうして言葉で表現できないケースが多いのだろうか。

その理由を教えてくれたのが、AIだった。
AIがどういう仕組みで動いているのかを知ると、どうしてセンスというものがこれほどモヤモヤした存在なのかも理解できる。

AIは人間の脳の仕組みをマネして作られており、神経細胞を模した人工ニューロンと呼ばれるものが、いくつもの層になって積み重ねられている。
各層を連結させている線は、太くなるほど電気信号が伝わりやすい。

ざっくりした形で図解すると、こんな感じだ。

人工知能の仕組み図解

AIを使える状態にするためには、まずは膨大な量のデータで学習させる必要がある。
学習済みのAIというのは、あるデータが入力されると高い精度で欲しい結果を出力してくれる状態になったものだ。

そのような状態になるように、何度も入力と出力を繰り返し、出力するたびに欲しい結果とのズレが小さくなるように、人工ニューロンをつなぐ部分の線で示したところの太さを変えていき、電気信号の流れやすさを調整していく。

一見すると難しそうに見えるかもしれない。

ただ、人間に置きかえて考えると分かりやすい。
ひたすらチャレンジと失敗を繰り返し、失敗のたびごとにお手本とのズレを確認し、うまくできるようになるまで何回もチャレンジしていくことを繰り返すという単純なものなのだ。

AIのこの仕組みにこそ、センスというものが言語化しにくい理由が隠されている。

AIは、どのように考えて答えを出したのかという思考のプロセスを、ちゃんと説明できない。
データを入力したら複雑な回路の中を電気信号が流れていき、とりあえず欲しい答えは出るからだ。
だが、その答えが出るまでの思考の過程というのは、ブラックボックス化されてしまっている。

人間の場合でいうと、何でも感覚でこなしてしまう天才肌の人を思い浮かべると分かりやすい。
天才肌の人は、すごいスピードと正確さで目の前のことを処理していく。
ただ、思考過程はブラックボックス化しているので、どうして自分がそんなにもうまくできるのかということを、言語化して理解するということはできていない人が多い。
そのため、自分のノウハウを言葉にして整理していないことが多いのだ。他人から「教えて!」と言われても、言葉で説明できずに教えるのが壊滅的に下手という人も出てくる。

天才肌の人というのは、脳内に高精度な学習済みの神経回路を持っている。
それこそが、センスの正体であると考えられるのだ。

センスは霊的なものではない

センスというと、霊的なインスピレーションと結び付けて考える人もいる。
だが実際には、これまでに書いてきた通り、霊的な要素というものは一切ない。

何も考えずにボーっとしているような時でも、脳内の神経回路において情報処理が行われている。
それが言語化されることなくパッとひらめくように出てくることがあるものだから、あたかも神のお告げであるかのごとく感じてしまうのだ。

センスを鍛え上げるためには、膨大な量のインプットとアウトプットが必要になる。

こう書いてしまうと、「そんなの、無理!」という声が聞こえてきそうだ。

だが、心配はいらない。
必要な努力量を節約する方法ならある。

私が出口先生の本に出会って劇的に国語力が上がった時と同じように、スキルやノウハウがうまく言語化されているものを見つけて積極的に取り入れていけばいいのだ。
そうすれば自力で膨大な量の学習をするよりも少ない労力でスキルやノウハウを自分の頭の中に入れることができる。
(だたし、ネット上にあふれているお金儲け系のものは、たいてい詐欺だが・・・)

膨大な経験から法則性を見つけ出してまとめたセオリー(理論)があれば、自分でゼロからやる手間は省ける。

センスの無さは、
セオリーでカバーできる。

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