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謝ってばかりの日常に|謝罪論

こんなにも謝罪ばかりが目立つようになったのは、一体いつからでしょうか。日々、誰が誰に何のために謝っているのかすら曖昧な現状に、謝罪とは何なのかを考えてみれば、目的を失い、ただ正義を振りかざすようなことがあってはいけないと思うのです。

 オンラインとオフラインが融け合う世界においては、日々、炎上と謝罪が繰り返される。回転寿司屋で醤油を舐め、バイト先のコンビニでおでんをつまみ、フェスで女性DJの胸に手を触れる。理由云々によらず、それらすべては紛れもなく犯罪であって、法律によって裁かれて然るべき。被害者に対する相応の償い、すなわち謝罪が行われる。しかし、それだけでは世間が許さず、加害者は特定され、晒され、攻撃され、場合によっては新たな被害者となる。あるいは被害者自身が対応を誤ることによって、二次被害を受けるケースもある。一体、誰が誰に何を謝ればよいというのだろうか。

 企業不祥事ともなると、事はさらにややこしい。中古車販売大手において、不正な保険金受給を申請したのは一体誰なのか、指示をしたのは誰なのか、知っていたのは誰なのか。もしも経営層が主導したものであれば、本来は被害者にもなり得る現場の従業員たちだけれど、非情にも世間からは冷ややかな目で見られている。何故に会社に抗わなかったのか、何故にそんな会社に勤め続けることができるのか。大切な愛車にわざと傷を付けられた顧客からすれば当然の追及も、関係のない外野によって執拗に盛り立てられる。さらに批判の声はいまだ店舗に足を運ぶ無関心な人々へと向かっていく。いわゆるキャンセルカルチャーの醸成だ。

 ポイントは謝罪の仕方にある。創業社長が「全てのステークホルダーの皆さまに、深くおわび申し上げる」と頭を下げつつも、自分は「天地神明に誓って知らなかった」とシラを切り、不正の責任を特定の部署の社員に押し付けたとしたら、それは儀礼的な言葉として空回りする。会見後は当然のようにSNSが盛り上がり、炎上する。私たちが使い古した「すみません」という発話のグラデーションを、儀礼から謝罪まで塗り分けた人文学者・古田徹也氏の著書『謝罪論』(柏書房、2023)によれば、軽い謝罪と重い謝罪とは誠実さの違いによって判別されるようだ。そんなことは当たり前だと思う一方、飲食店でスタッフを呼び止める際ですら「すみません」と言う私たちは、マナーとしての謝罪に慣れすぎている。

 そもそも私たちは誰に何を謝ってほしいのだろう。地位と権力に物を言わせ、まだ幼い育成タレントたちに虐待を繰り返していた芸能事務所のオーナーはもういない。今まで何度もその噂が立っていたにも関わらず、他界するまで公にならなかったのは、周囲の隠蔽があったからに違いない。彼/彼女らをそうさせたのは、恩義なのか、保身なのか。そのことに憤る私たちがいる。最も責められるべき加害者はもうこの世を去ったけれど、一緒になって権力を誇示し、私腹を肥やした仲間たちに謝罪を求めている。そこには事務所に所属するベテランタレントも含まれる。たまたま被害者にならなかった彼らは、いつの間にか加害者の側に立っている。このままでは、いつかまた同じことが繰り返される。

 古田徹也氏は先の著書なかで、謝罪の主体、客体それぞれの拡張性、曖昧性、多重性を説いた。すなわち、誰に何を謝ってほしいかは、謝られる人にぞれぞれなのだ。しかし結局のところ私たちは皆、同じ過ちが再び起こらないことを切に願っている。だから謝罪を通じてそれが約束されるまで、怒り続けることになる。迷惑系YouTuberであれ、バイトテロであれ、組織的隠蔽であれ、野放しにしておいたとしたら、いつか自分や家族、友人が被害に合うかも知れない。それを防ぎたいがために、私たちは誠意ある謝罪を求めるのだろう。一方でそれ以上の要求は難癖でしかない。正義を振りかざして、気が済むまで謝罪を求めるようなことがあってはいけないと思うのだ。


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