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メタバースがもたらす持続可能性|「ダミアン・ハースト 桜」展

現代アーティスト、ダミアン・ハーストは自然な「桜」を表現するために、キャンバスにドットを投げ込みます。結果として出来上がる作品が、解像度が低いにも関わらず私たちの心に響くのは、記憶や経験が呼び覚まされるためではないでしょうか。それは昨今のデジタル化の手法にも繋がり、持続可能な社会を作るためのヒントになる気がするのです。

 六本木・国立新美術館で開かれている企画展『ダミアン・ハースト 桜』では、実物大の桜の描かれた作品24点が、広い会場に整然と並べられている。どれも花は満開。まるで白い壁の部屋の中から、窓の外の桜を眺めているようだ。アクション・ペインティングの技法も取り入れて、様々な色で表現される自然の姿は生き生きと輝いて映る。そして、近づけば近づくほど、吸い込まれそうな没入感に包まれる。ここで湧き上がる感情は春の多幸感なのだろうか、眠気を誘う安心感なのだろうか。ふと、ピンク色の花びらの合間に、緑色の葉をみつける。そうか、この桜もあと数日で花を散らしてしまうのか。そう思うと、儚さが思い起こされる。

 絵画にはその瞬間が閉じ込められている。散りゆく桜を描いた作品は、ここにはひとつもない。それでも私たちは花びらが散ってしまうことを知っている。目の前の桜が新緑に染まる姿を想像できる。記憶によって補われる鑑賞が作品を現実のものにするのだろう。それは何も時間軸に限らない。無数のドットで描かれるダミアン・ハースト(Damien Hirst)の桜は、いわゆる解像度が低い。キャンバスの上では弾けた絵の具の痕跡すら見てとれる。しかし、私たちはそれが桜であることを認知できるばかりではなく、自らの知識・経験を重ね、感情を動かすことができるのだ。

 「人間にとって本当に必要な情報って何だろう」と、起業家・加藤直人氏は著書『メタバース さよならアトムの時代』(集英社)にて問いかける。岩も、水も、原子や分子から成っている。しかしその動きを普段から意識している人はほんのひと握りの研究者に限られ、私たちは全体としての形、大きさ、重さ、量などしか気にしていない。すなわち情報が「圧縮」されているというのが加藤氏の解釈だ。そしてその仕組みを活用して、演劇や漫画といったカルチャーが作り上げられてきたという。アートの世界におけるデフォルメもそのひとつだろう。決して自然を生み出すことのできない私たちは、自分たちの認知の範囲でそれを再構築する術を磨いてきたのだ。

 この流れはデジタライゼーションを経由して、今、メタバースへと昇華されようとしている。平面ディスプレイの中に表現された三次元オブジェクトの世界は、多少デフォルメされていようとも実質的な現実世界として機能する。VRデバイスを用いて、もしもそこに立つことができたとしたら、私たちはいよいよ物質的な制約から解放されることだろう。想像力次第で無限の可能性を享受することができるのだ。そこでは誰もがクリエイターになれ、多くの他者とリアルタイムにコミュニケーションを取れ、経済的な営みを行うことができる。加藤氏はこれを実現すべく、ご自身の会社を旗振りされているに違いない。

 では、なぜメタバースの構築を目指す必要があるのだろうか。端的に、今のままでは現実世界が維持できないからだ。ご承知の通り、人間の経済活動はすでに地球の資源だけでは補えない規模にまで膨れ上がっている。いまさらサスティナビリティを謳って、身の丈にあった暮らしを始めたって間に合わない。他の星を頼って宇宙開発を進めようにも資源が必要になる。だとしたら、残されたクリエイティビティを発揮して、経済主体を仮想世界に逃してしまうのも一つの手ではないだろうか。それはもちろん現実世界を諦めることではない。

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 ダミアン・ハーストの桜に心動かされるのは、私たちがリアルな桜の美しさと儚さを知っているからだ。現実世界における記憶、知識、経験があって初めて情報の圧縮されたメタバースを生きることができる。結局のところ人間は、創造力の源泉を自然に頼るしかないのだろう。だからこそ、何としてもそれを守る必要があると思うのだ。

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