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ドキュメンタリーは疑ってかかれ。うかつに感動してはいけない。 〜私は白鳥〜

「私は白鳥」

「何気ない日常にある小さな幸せ」

ウクライナへのロシアの侵攻があってそんな小さな幸せというものがいかに尊いものか浮き彫りになってきているのではないだろうか。

物質的な豊かさにまみれた都市の暮らしにはそれを見出すことは難しい。

街を歩く人々は道に生えてる草花や昆虫、雲の形や匂いなど様々な自然が溢れているにもかかわらずそれらに関心が向かない。というより向ける余裕がないのだろう。

逆に田舎に住んでいる人たちも、利便性という観点からするとかなり劣っているため、都市的な暮らしに憧れを持つ傾向にある。つまり、自分達の生活に密着している自然というものに対して日常すぎて顧みることは少ない傾向にあると思う。

本作に登場する澤江弘一さんは、言ってしまえば白鳥に取り憑かれたおじさんと称するのが適当かもしれない。彼は趣味で白鳥のビデオ撮影をしている。その記録はすさまじい量だ。その内容を見ても素人が見た時にはただの白鳥の映像にしか見えないのだが、彼にかかると「この子はここにこういう特徴があるから〇〇ちゃん」と個々に識別し映像から瞬時に判断が下せるのだ。

まさに「白鳥マニア」

マジョリティ的な思考だと、いい意味で「変態」と呼称されてしまうケースがあるかもしれない。

白鳥を観察していく中で、時たま出てくるのが怪我をしてしまった個体がいること。冬が過ぎ春が近づいてくると、白鳥の群れ馬シベリアの方面に帰っていくのだが、怪我をしてしまって飛び立つのが困難な個体はひとりぼっちで残されてしまうのだ。

そんな白鳥を澤江さんは保護することはできないまでも、餌を与えたり、夏の炎天下を乗り越えられるように比較的涼しい場所に寝ぐらを作ってあげたりと、全力でサポートしていく。

そしてその年の冬に仲間と再会できるその日まで見守り続けているのだ。

そこまでする必要あるのかと思ってしまう気持ちもあるが、ここまで本気に、白鳥のために、なんなら白鳥になりきって奉仕する姿に感動を覚えてしまうのは私だけではなかったはずである。

と思う反面、自分にあんなことができるのか、例え好きでもあそこまで情熱を注ぐことができることが自分にはあるのかと反省の念に駆られ、身につまされる思いだった。

しっかりレビューを読んでいる訳ではないが、「感動」というニュアンスで感想を書かれている人が多く見られた。そういう人ってどこか、他人事に思えてるからこそ感動できるんじゃないかって思う。

ドキュメンタリーは社会の「窓」「鏡」と例えられる。
これはドキュメンタリーの機能としての側面の比喩なのだが、

「窓」
というのは、視聴者に社会の様々な現実を直視させるもの。

「鏡」
は、視聴者たちが見慣れた「擬似的な現実」うつすためだけのもの。

でも、捉え方によって変わってくるのではないととも思っている。直視させるものといってもそれが事実なのかどうかで疑って見なくてはいけないし、擬似的な現実を写しているような作品であっても、その中の本質を私たちは見抜く必要があると思う。

要は見る側の判断に委ねられるのだ。このような「窓」や「鏡」の議論も制作側の論争であって、そこに視聴者が混じっていないように思える。
我々視聴者は作品を見極める力が必要だ。リテラシーとでもいうのか。

森達也氏のインタビュー記事「角度を変えた視点も必要」

ドキュメンタリー作家
森達也氏のインタビュー記事が地元紙に掲載されていたので紹介したい。

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見出しには、「角度を変えた視点も必要」

記事にはロシアの武力行使を皮切りに、我々に日々流れてくる戦争のニュースに関してただ単に思考停止して受け入れていないか、違った角度から見て判断することも必要である、ということを話している。

決してロシアを擁護しているということではない。記事の中にもそのような旨が記されている。日本はウクライナを支援する立場、引いてみればヨーロッパ諸国を中心としてアメリカ等の側についている。

我々の立っている側が絶対正義かと言われるとそうとも言い切れない。ウクライナの側にもダークサイドがあることを忘れてはいけない。2014年にマイダン革命の際にウクライナの軍が警察や市民を弾圧しと暴力を与えたことが事実として存在するし、ミンスク同意は未だに履行されておらず、ネオナチ的な勢力は実際にウクライナの政治に大きな影響を持っている。冷戦崩壊後にアメリカがウクライナに対して、新米的な政権が勢力を持つための謀略工作を仕掛けてきたことも事実。日本もその国の一つで、これはアメリカの常套手段としてよく使われている。

あれ、ロシアの傀儡政権がどうのこうのって、アメリカさんも同じことやってるじゃないですか。どういうことですの。結果的に兵を進めることになったのはアメリカの影響も多いにあり得るロシアは非常に追い込まれた状況だったのかもしれない。もっと未然に防げる策は国連を通じてできなかったのだろうかと疑問を持ってしまう。

日本はアメリカの傀儡政権なんだから別の視点なんてわかりっこないってこと。思考停止してたらね。

だいぶ脱線してしまったが、ドキュメンタリーを通じて我々がどう捉えて理解するかということの方が重要なんじゃないかって話。

その感動は本当か?

だから、澤江さんから得ることのできることが単純に「感動」であってはいけないと私は思ってしまう。

私は社会の内側にこもっている常識にとらわれることなく、何かのために、誰かのために尽くすこと、必要ならば少しの法外な行動も厭わないある種の盲目さの重要さを澤江さんから学んだ気がする。

空気を読むことは大事だけど大事じゃない。

日本の悪いところを澤江さんを通して観客に対して浮き彫りにした作品なんじゃないかと。作品を見て「感動的」のような雰囲気になっている状況をさらに客観的に見てやばいって思えるかどうかなのかなって思ったりした。


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