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ポップコーンは買わない派です。vol.36

2人のローマ教皇

教皇は神ではない。人間だ。

予告編

あらすじ

2012年に当時のローマ教皇だったベネディクト16世と、翌年に教皇の座を受け継ぐことになるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿の間で行われた対話を描いたNetflixオリジナル映画。カトリック教会の方針に不満を抱くベルゴリオ枢機卿は、ベネディクト教皇に辞任を申し入れる。しかし、スキャンダルに直面して信頼を失っていたベネディクト教皇はそれを受け入れず、ベルゴリオをローマに呼び寄せる。考えのまったく異なる2人だったが、世界に10億人以上の信徒を擁するカトリック教会の未来のため、対話によって理解しあっていく。

主な登場人物

ベネディクト16世(ヨゼフ・ラッツィンガー)
第265代ローマ教皇(在位: 2005年4月19日- 2013年2月28日)、名誉教皇(在位: 2013年2月28日 - )。
719年ぶりに自由な意思によって退位し名誉教皇となった。ベネディクトゥス16世と表記されることもある。ドイツ出身。本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー
フランシスコ
第266代ローマ教皇(在位: 2013年3月13日- )。本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。アルゼンチン出身。

途中までこの作品が劇映画だと気づかなかったなあ。ドキュメンタリーかと思うぐらいリアルなカメラワーク。そして本人にそっくりな出演陣。

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簡単にいうとこの作品は2人のおじいさんが会話するという内容なのだ。教皇の会話劇の何が面白いのだろうかと思っていたのだがそれが逆に興味を惹かれるモチーフであった。私自身カトリックではないし、キリスト教にも詳しいわけではない。しかしながら教皇も1人の人間として生きていて、劇中で、独裁政治に加担していたということを吐露していたり、ヒトラーユーゲントの一員だったという過去を持ち、ナチ野郎と呼ばれていたりと、大変に苦悩に見舞われているのだ。そんな罪の意識をお互いに対話し、わかり合うことで許し合うことができるのだ。

カトリック教会としての罪(共通の罪)

カトリック教会の性的虐待事件
問題の性質上、長きにわたって明るみに出ていなかったが、2002年にアメリカ合衆国のメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに多くの報道が行われ、一部は訴訟に発展した。この種の事件が起こっていたのは孤児院や学校、神学校など司祭や修道者、施設関係者と子供たちが共同生活を送る施設であることが多かった。なお、メディアでは「児童への性的虐待」と報道されても、多くの場合は児童ではなく、成人である神学生のような人への虐待である。
教皇ベネディクト16世は当該問題につき「教会内で生まれた罪により教会が脅威にさらされている」とし、教会の責任に初めて言及した。しかし、これはポルトガル訪問の際の機中で記者団に語った発言であり、屋外ミサにおける説教では特に言及はされなかった。
ベネディクト16世に代わり、2013年3月13日に新たに教皇となったフランシスコは、2013年4月5日にこの問題に関して「断固とした対応をとる」という声明を発表した。ウィキより。

ベネディクトの罪

ベネディクトさんはドイツの出身。ドイツは第二次世界大戦で有名なようにヒトラーによる独裁政権が存在していた。そこではヒトラーユーゲントと言って10〜18歳の青少年は学校外の放課後において戦争を学ぶための組織に法律で入隊させられていたのだ。

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その当時は自分の意思に反していたとしても入隊しないと命の危険もあっただろうから仕方ない部分はあると思う。しかも少年時期にはそのようなことを判断する善悪の基準もいまいちわかっていない時期に刷り込まれるのだから。ベネディクトさんもそこに入隊していた過去があり、それを差別してナチ野郎と揶揄する連中もいたらしい。そんな過去を背負いながら性的虐待の問題に対してはなかなか強い判断を下すことができずに罪の意識を抱えて、生前退位に踏み切ることになるのだ。教皇が生前退位すのは何と700年ぶりの出来事だったらしい。

余談ですがヒトラーユーゲントに関わる映画があって、
ジョジョラビットという映画はまさにヒトラーユーゲントでヒトラーに心酔する少年とユダヤ人少女との交流が繰り広げられる心温まる映画だ。是非こちらもご覧いただきたい。

フランシスコの罪

フランシスコはアルゼンチンの出身。アルゼンチンでは過去に独裁政権による恐怖政治が行われていた。それは政権に反対するものに対して拷問、虐殺し、海に捨てていたというナチスと同じようなことしていたのだ。

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その時にカトリック教会はその政権と戦わなかった。中には活動する司教もいたのだが、左翼とみなして虐殺の対象となっていたらしい。フランシスコはその仲間たちを助けてやることが出来なかった。サイレントマジョリティーとして恐怖政治に加担していたのだ。その罪の意識がフランシスコさんには強く残っているために劇中では私なんかが教皇にはなれないと吐露しているのだ。

2人に共通するもの

2人に共通するものは罪の意識だろう。それをお互いに対話することによってお互いの考え方をわかり合うのだ。対話することも人間だからこそできること。

教皇は神ではない。人間だ。

この言葉が象徴するのは教皇というのは人間であり人間は罪を犯すものであると。しかしそれを許せるのも人間。それを繰り返さないように努力することができるのも人間。だったらそれを頑張ってみようじゃないかということを説くのが教皇のある立場なんじゃないかなって思うわけ。

この映画で印象的だったのが、フランシスコが飛行機のチケットを自分で取るシーンがあって、オペレーターに直接電話でチケットを取ろうとするのだが、

フランシスコ:「〇〇行きのチケットを」
オペレーター:「それではお名前を」
フランシスコ:「フランシスコです。」
オペレーター:「ローマ教皇と同じ名前の?」
フランシスコ:「そう、私がそれ。」
オペレーター:「ふざけないで。」「ガチャ!」
フランシスコ:「・・・」

フランシスコ:「仕方ないネットでとるか、と言ってもやり方がわからない。」

部屋のそとにいる警備員に

「Wi-Fiの繋げ方はわかるかね」

と尋ねておもむろに重装備の警備員がスマホを取り出して教皇に教えてあげるシーンは思わず吹いてしまった。もはや警備の人はコスプレにしか見えない、w

こんなやりとりが実際にあったかどうかはわからないが、めっちゃコメディに描かれていて、ああ教皇も俺たちと同じ人間なんだなあって感じるわけだね。

全体的には素敵なコメディなので2人の対話のやりとりの中にも様々な掛け合いが織り込まれている。おじいちゃんならではの面白さ詰まってると思う。

フランシスコは割と庶民派というか教皇になる前なんかはスポーツバーとかで普通にサッカーを見てるし、ビートルズを聞いてたりとか親近感が湧く。一方ベネディクトさんの方はそういった庶民の文化を知らない。知識人ではあるのだが、ビートルズを知らなかったりする。ピアノは弾けるけど。そういった点でも信者に寄り添うことができるのはフランシスコは大変優れている点があると思う。
庶民のことをよくわかってるし、その分人気も高い。

ベネディクトさんは庶民を下に見ているという言い方は失礼かもしれないが、わからん奴は知らん!というような頑固親父を思わせる部分がある。だけど時より見せる優しい柔和な一面が見れるとこちらの頬も緩んでくる。

是非この2人の会話劇ご覧になっていただきたい!

おうち時間にふふっと優しい笑いと愛を感じることができるそんな作品だと思う。

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