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夢の涯てまでも ディレクターズカット

ポップコーンは買わない。vol.133

ヴィム・ヴェンダース監督の特集上映が組まれていて、初めて作品に触れることになった。

代表的な10作品が公開されて、中でも最もインパクトのあったのが、「夢の涯てまでも」だった。

公開当時は上映時間が158分だったものが、
2019年に公開されたディレクターズカット版ではなんと288分と約5時間ある作品。ここまで違うと作品のニュアンス変わってくるんじゃないかって思ってしまうんだが、逆に158分版を見てみたいとも思ったんだが、配信にはディレクターズカット版しかなくて、え?逆に?笑。

今回は贔屓にしているミニシアターで、ディレクターズカット版が上映されるということでこんな機会滅多にないことから、意を決して本作に挑んだ。

先に言うとあっという間の時間だった。むしろ作品にグッと入り込んでいく感覚があって、途中の休憩でなんだか没入感が途切れる感覚があって、ちょっと嫌な気持ちになったことを覚えている。

一本の作品で、前半約3時間の後、2時間の上映って今じゃ考えられない。
例外でサタンタンゴという作品がありますが、あれは7時間18分。


本作はロードムービーということで世界各国の風景が登場し、そのスペクタクルは凄まじい。それはそれとして観るだけでもそこそこ満足感ある画なのだが、特に後半になっていくと、夢を永遠に見てられる装置が登場して、そこから抜けられなくなって、過去に囚われすぎて徐々に廃人になっていくという場面がある。

メタバースなんて言葉が生まれるはるか前から人間が仮想空間に溺れてしまうのではないかという仮説のもと、このシーンを撮ることができたというのはすごいというべきか、それだけ世の中の概念はそこまで大きくは変わっていないのか。

正直、これだけの上映時間だとだんだんあらすじはどうでも良くなってきて、純粋にに映像の美しさ、景色の美しさ、ファッション、劇中歌、造形、等々に目がいくようになってくる。

各国にロケーションして撮影しているため、国のリアルが映し出されている。よく海外から見た日本はブレードランナーでもみるような中国っぽいざっくりとしたアジアのイメージで描かれることが多い。

私はパチンコのシーンは日本を示す上でリアリティのある描写であったと思う。その後の竹林や日本家屋もリアルであった。さすが小津安二郎をリスペクトしているだけのことはある。

物語の後半は夢というものが絡んきて、単純なロードムービーとは毛色が変わってくる。ここでふと、SFだったのかと気づく。公開は91年。ケータイ電話やインターネットの黎明期である。そういったこともあって我々はテクノロジーを利用、活用する反面でそれらの中毒性に翻弄されてしまう。

スマホが普及する未来は想像できていなかったろうが、まさにこの映画で描いた通りの人間像がそこにはあった。

まるで廃人のようになっていく、主役のクレア。

そのある種の解毒剤として作用してくるのが「言葉」をはじめとした芸術行為なのである。というより、よりアナログな行為が人間が快楽だけを求める動物にならないための方法なのではないだろうか。

テクノロジーが発達したからこそ、自らの行為で様々な世界を知覚していく尊さを感じることができる。

鑑賞当時はまだコロナの危険が身近な時期であった。旅もできない、人との触れ合いも難しいというの中でよりその重要性を訴えてきているような気がして、この時期にこの作品が公開された意味みたいなものも想像しながら、コロナ禍以降の道標にもなっている作品であった。

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