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ポップコーンは買わない。vol.101

ヘレディタリー/継承

ホラーはなぜ存在するのか

単純に浅いこといえば儲かるからである。

映画というのは初期の頃からエロいものと怖いものというのは商業的にもやりやすいというのがあって現在まで残っているとされている。

怖いもの見たさというのは不思議なもので、見たいけど見たくない、見たくないけど見たいという人間の根本を刺激するコンテンツなのだ。

ホラーの必要性

物心ついてからのホラー体験というと、保育園、小学校でのお化け屋敷に始まり、地域や学校主催の数多ある自然教室での肝試しなどはトラウマ的に記憶している。

自然教室での肝試しでは開催前に地元地域に伝わる民話をモチーフにした怪談を披露してもらった。その後に出かけるもんだから怖さにエンハンスがかかってる状態。ちょっと物音でもみんなしてギャーギャーわめき散らかしてたなぁ。笑

今だからいい思い出として語れるけどその当時はめちゃくちゃ怖かった。

そんな経験があって、当時は怖さはそれでしかなかったけれども今振り返ってみると怪談や肝試しとはなんだったのかという考察をすると面白いことがわかってきた。

怪談に登場する幽霊や妖怪などはそこで起こった事件や事故への教訓を恐怖をもって身に付けさせるという目的があると思う。

身近な例でいえばホラー映画や番組を観た後のお風呂で後ろになにかいるんじゃないかという気配にビクビクする経験から、戸締りに気をつけるという副次的な効果があると言えるのだ。

闇を恐れたり、危ないところには怖いものがいるという意識の植えつけは大人による優しさ故の植えつけがあったのかなと思うと理にかなってる教育だと思ったわけだ。

そういった意味で、捉えるとスティーブンキング原作の作品は、事象としてこうなってしまったら最悪だよねというような物語が多い気がしてて、怖いもの見たさの部分を広げつつ、人々への教訓も副次的に与えている作品があるように思える。

今回のアリアスター監督のヘレディタリーは教訓という意味では個人的に引っかからなかった、つまり怖さの部分を最大限に引き上げられた作品として消化できた気がする。

ホラーこそ映画館で観るべき

本作に登場するアニーは彼女自身の母が亡くなったことをきっかけにチャーリーの死、息子ピーターへの隠しきれない憎悪やそれでも彼を憎んではいけないという気持ちの表れ。そういった様々な要因で彼女を発端に家族の精神状態がどんどんおかしくなっていく姿、そして全てが最悪の方に堕ちていく、これをスクリーンで観させられた時の感覚は怖さを倍増させるんじゃないかと思った。

配信では止めることができちゃうし、飛ばすこともできてしまう。それはあえてやらなかったけど、映画館ではある程度の拘束、自分たちで制御できないからこそその作品の魅力を最大限に感じることのできるものがあると思う。映画館だからこその作り方で恐怖を提供してくださってるんだなと誠意を感じた。映画館で観たかったなぁ…。

逆に配信の方がいい作品もある。

それはドキュメンタリー系。分からない単語が出てきたときにその一瞬に気を取られてるとどんどん次に言ってしまうことがある。

最近、Netflixで三島由紀夫vs東大全共闘の映画の配信が解禁された。これは素晴らしいことで、この作品自体は映画館で観たのだが、なんたって分からない単語が多すぎること。討論会のドキュメントだったので難しい単語が間髪入れずに飛び出してくるため、映画館での満足度としてはかなり低めだった。それでここにきてネトフリで公開されると字幕がついてくるわけだ。その字幕をみながら、分からないところは巻き戻したりして繰り返し観ることができるのはかなりのメリットなのだ。この作品に関しては配信で良かったなと心から思った。

最後に

話は逸れてしまったが、私にとってのホラーというものの位置付けがいろんな映画をみるとこによって変わったことを記しておきたいと思う。

また他の作品を見ることでホラーのパターン、モチーフいろいろあると思う、そういった共通点を捉えて語るのも大変興味深い楽しみ方に繋がるのではないかと考えている。

しかし、気をつけなくてはいけないのはそういった恐怖に慣れてしまいどんどんと危ない領域に入り込んでしまうこと。いろんなことに日々恐れながら生活することの方が安全なのかもしれない。

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