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学生時代によくある「やった感」を払拭するには…。

学校生活における部活動や、課外活動に関して思うところがある。

それは

やった感だけ残して、結局何の身にもなっていないということだ。

私は高校時代そこそこ課外活動で実績を積んできたつもりだったのだが、いざ振りかえってみると今に全く活かされていない。

私が敬愛する映像研の金森氏の言葉にこういうものがある。

「学校生活でありがちな作れただけでよかったでは将来路頭に迷います。」

ほんとにそう。

これは、映像研が学外で映像作品を売って製作費を稼ごうとして学校側からお叱りを受けているシーンで、発した言葉です。

学校側としては、

「お金を儲けてどうするつもり?学生時代にしかできない部活動のやり方があるんじゃない?」

などと発言していて確かに、と思っていた矢先に金森氏の発言があったわけで。

学校の立場とか、地域との関係とかがあるから学校側の言い分もよくわかる。

しかし、金森氏の発言には説得力がある。それを裏付ける計画も緻密であるためにこれは金森氏の圧勝。


映像研くらいしっかりした計画があってこそ成り立つ所業なのだが、何もやらないよりいいにしても、”やった感”だけでは社会に出た時に何をどうしていいか全くわからないところからスタートする。

しかし、高校、大学時代からビジネスだったりお金の勉強をし、実践していれば”やった感”の”感”は取れるのではないだろうか。


高校の後輩たちをみていても常々感じるのは、やった感で新聞なりメディアにもてはやされているということ。

彼らが注目されているのは、ぶっちゃけ高校生であるということだけ。個人の能力に関してはあまりフォーカスされていない。

それは直結して高校の評価になるからだ。

学校側の規則に則り、その中で優秀な成績を残したとしてもその時は嬉しいが、後から振り返ってみると何の意味があったんだろうかと思ってしまう。もちろん、大学進学に必要なことだったのだが、それ以外の遊びの部分がいまいち足りなかったように思う。


学生時代の後悔を振り返ってもしょうがないのでこれからに活かすしか他ないのだが、映像研にはものづくりの過程やそれを流通させて、お客に届けるまでを何度も繰り返し、その度に成長している姿が映し出されている。

自分の作品とは何なのか。どう作り上げるのか。そして、自分の作品をどう届けるのか。

映像研を鑑賞し、
身体に刻み込んでいく日々である。

要するに何が言いたのかといえば、
「映像研」は繰り返してみるべきだで。

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