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そのとき歴史が動いた? 親鸞聖人、形見のご本尊【第8回】綱引山 豊安寺(茨城県行方市)

来年、京都の西本願寺で「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が勤められることを記念して、関東の地に残された宗祖・親鸞聖人の由緒を伝える「ご旧跡」を、令和の時代に昭和の香りを残すおじさん僧侶2人が巡ってみました。

ご旧跡紹介

 寺伝によると、親鸞聖人が55歳だった安貞元(1227)年、霞ヶ浦の三又沖に毎夜怪光が現れ、村人を怖れさせていた。聖人が稲田草庵から鹿島神宮に向かうとき、村の徳者・仁左エ門が聖人に事の子細を話し、聖人とともに三又沖に舟をこぎ出した。沖で舟は金色の光明に包まれ、大網を下ろすと一尺八寸の阿弥陀如来坐像が引き上げられた。聖人は「これ、吾に有縁の尊像なり」と喜び、うろくず(魚の鱗)を 済度のために 御相を 霞ヶ浦に かくしおきつると歌を詠まれた。

  尊像は仁左エ門宅に安置され、聖人はそこで17日間教化し、村人はみな深く聖人に帰依した。とりわけ仁左エ門は随喜して剃髪し、信願と法名をたまわり、一宇を結び阿弥陀庵と名づけた。

 尊像は聖人が帰洛の際にお持ち帰りになり、真宗木辺派本山・錦織寺のご本尊に。阿弥陀庵には聖人より形見として仁左エ門に授けられた阿弥陀如来立像が伝えられた。以来戦乱の世となり久しく荒廃していたが、文化年間に富山からの移民がこの地に道場を構え、尊像を受け継ぎ現在に至る。

現地ルポ

 石岡市から国道355号を潮来方面へ約20㎞。「Y」の字を左に傾けた形の霞ヶ浦で、北岸に近い行方市の手賀新田と呼ばれる農村に豊安寺はあります。鹿島・行方など常陸国南部の門弟のために書かれた親鸞聖人のお手紙があることから、親鸞聖人ご在世の時代から真宗門徒がいたことが偲ばれます。

 この地には江戸時代、富山から篤信の門徒が7家族移民してきて、アシの生い茂る沼地を開拓し、豊かな水田地帯に変えていき、現在の姿となりました。その農家は「散居村」と呼ばれる集落形態で、敷地の真ん中に家を構え、周りを農地に開拓し、自家の排水などはすべて敷地内で処理するという合理的な村づくりであったといいます。その集落の中心に豊安寺が構えられました。 

旅ある記

藤 今回は御消息にも出てくる「鹿島・なめかたの人々」とはどういう方だったのかなあと思いを巡らせながら来ました。
星 それと、木辺派本山・錦織寺のご本尊になっている「霞ヶ浦のご本尊」ですね。
藤 親鸞聖人ご在世の時代は行方に門徒集団があったということでしょうけど、豊安寺の法水隆文住職によれば、その後、江戸後期に富山からの移民が豊安寺を建立するまで、念仏集団がいた形跡はなかったんじゃないかとのことでしたね。
星 しかし親鸞聖人形見のご本尊は仁左エ門さんの子孫を通じて豊安寺に伝わっていると。
藤 その辺の歴史が謎めいていていいよね。
星 錦織寺のご本尊の阿弥陀如来像は坐像だとか。浄土真宗では立像が中心ですが、親鸞聖人が坐像を持ち帰られたのも面白いです。
藤 ところで霞ヶ浦からは筑波山が見えますよ。
星 ほんとですね! 4月号で藤本さんが、親鸞聖人は筑波山に登って比叡山からの眺めを思い出されていたんじゃないかと言っていましたけど、逆側からも見えました。伏線回収!
藤 気づいてくれましたね。ばっちぐー♪
(藤本真教・星顕雄)

板敷諒副住職(左)と法水隆文住職(右)

公共交通機関でレッツアクセス!
〒311-3513 茨城県行方市手賀1263電話 0299-55-3159FAX 0299-55-3473築地→(東京メトロ日比谷線・北千住方面・170円)→上野→(JR常磐線特急・2540円)→石岡→(関鉄グリーンバス・かしてつバス・新鉾田駅行き・740円)→玉造駅→(タクシーで6~7分)→豊安寺※タクシーは玉造タクシー(電話・0299-55-0008)など駐車場6台※参拝には事前連絡が必要

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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