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トンカツを食べるとき、端っこと真ん中はどっちが好き?

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「端っこ」と「真ん中」です(本記事は2021年6月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 向田邦子さんの名エッセイ集『父の詫び状』の中に、「海苔巻きの端っこ」という一編があります。子どもの頃から、海苔巻きの端っこが好き。海苔巻きだけでなく、伊達巻やソーセージなども端っこが好きだし、パンならば耳のところがいい。……という記述に、「わかるわかる」と思う方は多いことでしょう。

 食べ物の端っこには、健気な味わいがあるものです。たくわんを切りつつ、その尻尾をポイと口に放り込んでしゃぶっていると、堂々と丸い、一番太い部分をパリッと噛む時とは異なる滋味が感じられるのです。

 ややもすれば見捨てられがちな「端っこ」の存在にスポットライトを当てる向田邦子さんの手腕が見事な、このエッセイ。しかし昨今は端っこの美味しさが知られるようになって、端っこが主役化する傾向もあるようです。

 例えば、たい焼きの、「たい」の周りにはみ出したパリパリしたところをあえて広く作ったものが、「羽根つきたい焼き」として売られていたり。パリパリ部分の面積が広い「羽根つき餃子」も、見たことがあります。

 端っこは確かに美味しいものですが、たまたまできた希少な部位だからこそ美味しい、という感覚もあるはず。あえて量産すると、僥倖感が薄くなる気がしないでもありません。

 我々は、実はそもそも端っこを好む習性を持っているようにも思います。例えばホールのような場所が自由席という時に真っ先に埋まるのは、端っこの席。集合写真を撮る時も、最初から真ん中に陣取る人は少なく、
「どうぞ、中の方に」
「いえいえ、あなたこそ」
 という壮絶な譲り合いが繰り広げられる。

 人が集まる場所における「真ん中回避」の傾向は、おそらく「責任を負いたくない」という心理からくるのでしょう。真ん中に座ったら目立ってしまいそうとか、発言を求められるのではないかといった心配からつい、端っこに座ってしまう。

 もちろん私も端っこに座るのが好きなのですが、それは真ん中に座る人に責任を押し付ける行為でもあるのでした。遠慮して端っこに座っているつもりでも、実は面倒臭いことを避けようとしているだけ。そろそろ真ん中に座る覚悟も必要な年頃なのではないか、とも思うのです。

 そんなある時、衝撃的な出来事がありました。皆で色々な料理をつつく居酒屋スタイルのお店で数人で食事をしていると(コロナ前のことです)、とんかつが出てきた時に、若者がまず、真ん中の肉から箸をつけたのです。

 そういえば前も、切られたチキンソテーの真ん中から食べる若者がいたのでつい、「ひょっとして今時の人って、真ん中から食べるのが普通なの?」と聞いてみると、「だって、一番美味しいところから食べたいじゃないですか」
 とのこと。

 その答えを聞いて私は、どこか清々しい気持ちになったことでした。「いきなり真ん中」に躊ちゅう躇ちょすることなく、食べたいところを堂々と食べる若者が眩しく見え、「社会通念上、やっぱり端っこから……」などと思っている自分が、小さく感じられた。

 とんかつの端っこは衣が多くて脂っぽく、「何でも端っこがいいというわけでもないなぁ」と、その時実は思っていた私。日本の将来を背負うのは、堂々と「真ん中」を選択できる、こんな若者なのかもしれません。


 酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『処女の道程』(新潮文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。