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「捨てる」と「ためる」 酒井順子さん連載コラム『あっち、こっち、どっち?』③

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「捨てる」と「ためる」です(本記事は2020年6月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 自宅で過ごす時間が多い今、手がける人が目立つのが「断捨離」です。「断」や「離」よりも、「捨」行為に没頭する人が多いのは、捨てることが最もスッキリ感を伴う行為だからなのでしょう。

 捨てることのブームは、今に始まったものではありません。バブル崩壊以降、不景気が続くと物質的欲望は沈静化し、「シンプルに生きたい」という感覚が強まってきました。高齢化社会が進む中で、自分が死んでから子供達に迷惑をかけないように整理しておきたい、という「終活」もブームに。

 私の中でも、定期的に断捨離欲求が湧いてきます。不要なものをまとめて捨てると、確かにスッキリして、ハイな気持ちになることができるのです。

 今回も私は、蟄居(ちっきょ)生活の中で「何か、捨てたい」という気持ちになってきました。が、同時に思ったのは、「捨てていいのか」ということです。 

 たとえば、紙袋。平時は、一定以上の紙袋を持っていても仕方がないと定期的に捨てていましたが、今は買ったものを紙袋に入れてくれるようなお店に行かなくなりました。一方、何やかやと紙袋は使用するものであり、紙袋のストックは漸減(ぜんげん)状態。に「この分だと、いずれ紙袋の備蓄がゼロに?」などと思ったりするのです。

 遠い昔、祖母は包装紙や紙袋や紐といったものを、大切に保管していました。その時は「そんなものを持っていても使わないのでは?」と思っていましたが、祖母は戦争を知っていたからこそ、「何が起こるかわからない」と、色々なものをためていたのでしょう。

 平時は無駄に思えても、非常時に力を発揮するのが、備蓄です。思い返せば東日本大震災の時も、私は古新聞を捨てることに躊躇したものでした。古新聞があれば、いざという時に焚きつけになるし防寒具にもなると思うと、しばらくの間、資源ゴミに出せなかったものでしたっけ。祖母の備蓄癖の意味が、初めてわかった瞬間でした。

 それまでは、「捨てる」の反対語は「拾う」だと思っていた私。しかし東日本大震災以降、それは「拾う」ではなく「ためる」なのだなぁ、と実感しているのでした。余計なものを蓄えずにシンプルに生きるというのは平時の思想であって、いざという時は捨てずにためていたものが、力を発揮するのです。

 それは、物質的な面だけではないのかもしれません。合理的に物事を考えるシンプルな生き方は、平時には有効です。しかしいざ何らかのピンチに陥った時は、それまでの人生で、あちらで迷ったりこちらにぶつかったりと非合理的な生き方をしてきた時の体験が、かえって精神における蓄えとなってくるのではないか。

 ただ人生で難しいのは、蓄えたものを生かす機会がやってくるかどうかが、最後までわからないところです。祖母は、たくさんの包装紙や紐をため込んでいましたが、終戦以降はこれといった国難に遭うことがありませんでした。結果、それらは日の目を見ずに。祖母亡き後、我々によって処分されてしまったのです。

 しかし祖母の備蓄品は消えたけれど、その備蓄精神は、今も私の中に生きている。……のかもしれず、今はしばし、断捨離しないで色々とため込んでおこうかな、と思っているのでした。

【築地本願寺新報 2020年6月号より転載】

酒井順子
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経て、エッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『無恥の恥』(文藝春秋)『うまれることば、しぬことば』(集英社)など。

【上記記事は、築地本願寺新報に掲載された記事を転載しています。本誌の記事はウェブにてご覧いただけます】

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