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「推しができた喜びに泣いた」と語る友人。“推し”を持てるのは一種の才能?

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「推す」と「推される」です(本記事は2022年12月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。


  友人が先日、世界的に人気の韓国のアイドルグループ・BTSのライブのため、韓国・釜山まで行ってきました。帰国後、感想を聞くと、
「ライブ開始の花火が上がった時は、いよいよ自分にも“推し”ができたという喜びで、涙が出てきた」
 とのこと。

 自分が応援しているアイドルや俳優などのことを「推し」と言う今。アイドルなどを全力で「推す」のはたいそう楽しく、生きる目標になるほどなのだそうです。

 “推し”を持つことができるか否かには、一種の才能が必要です。ティーンの頃からジャニーズアイドルに夢中だった別の友人は、その後も常に誰かの熱狂的なファンであり続け、今でも韓流アイドルを熱く推しています。推す才能を豊かに持つ彼女は生涯、推す楽しみを味わい続けるに違いない。

 対して私は、推す才能を持っていません。子どもの頃から今まで、アイドルに夢中になった経験は無し。推し活に熱くなっている友人を見るとあまりに楽しそうなので、「いいなぁ」と思うのですが、無理に好きになることもできないのです。

 釜山に行った友人は、「自分にも推しができた喜びで泣けた」と言っていましたが、おそらく彼女も今までは、“推す才能”に自信がなかったのでしょう。誰かを推したいのに推せずにいたところに、やっとBTSという推しができた喜びで、目頭が熱くなったのです。

 そうしてみると「推す」という行為は、「推し」のためにしているようでありつつ、実は自分のための行為でもあるのでした。自分が推すことによって、「推し」がよりビッグなスターになることを望む一方で、その行為は自分の快楽のためでもある。

 昨今は、中高年の女性達も大量に推し活に参入しています。彼女達は、子育てを終えて行き場を失った愛情や、「何かを育てたい」という欲求を、アイドルに振り向けているようにも見えるのでした。

 となると、推される側もまた大変であることよ、と思うのです。ファン達は、熱狂的に推しを応援しているけれど、推しの人生を最後まで引き受けるわけではありません。推しのことを推し上げたはいいものの、気分次第で「推し変」(推す対象を変えること)してみたり、はたまた推し活から卒業してしまうこともある。推されて高みに上ったはいいものの、気がついたら下に人がいなくてそのまま落ちてしまいました、という下手な胴上げのようなことにもなりかねません。

 推される側としてはそのようなことにならないよう、頑張って歌い踊り、ファンに愛の言葉を述べるのでしょう。推しは常にファンに対して優しく、推しを裏切ることはありません。しかし実はファンの方は時に推しを裏切るのであり、ファンの愛情は、決して永遠ではない。

 しかしファン達は、だからこそ推し活に夢中になるのです。夫婦の愛や親子の愛と違って、推しへの愛には責任が伴いません。どれほど夢中になるのも、どれほど冷たくなるのも自由だからこそ、推し活は楽しいのかも。 

 ……などと思うと、かえすがえすも自分に“推す才能”が無いことが残念でならない私。この先、もしも“推し”が見つかるようなことがあれば、私もまた感涙にむせぶに違いありません。
 
 
酒井 順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966 年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003 年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『女人京都』(小学館)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。