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能登半島地震で考える「孤立」の意味

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「海」と「陸」です(本記事は2024年2月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 元日に石川県能登地方を震源とした、大きな地震が発生しました。能登半島好きの私は、珠洲に住む友人と、年末に電話で話していたばかりだったのであり、心配が募ります。

 友人一家の安否は、しばらくわかりませんでした。LINEが既読にならないのは、スマホの電源がなくなっているのもしれない。いやもしかすると……などと、様々な想像が頭を駆け巡ります。

 しかし様々な検索をしているうちに、とあるニュースサイトに掲載されている写真の撮影者として、友人の名前が出ているのを発見。彼女が住んでいる場所は孤立集落となっており、現状を知らせる画像を、彼女は発信していたのです。「よかった、元気だった!」
 と読み進めると、その集落では、体調を崩している人などもいない様子。「ということは、ご家族も皆、ご無事!」と、まずは胸をなでおろしました。

 とはいえその後もしばらくは、孤立状態が解消されない集落が多かったのであり、住民の皆さんのご苦労はいかばかりのものだったか、と思うと、言葉もありません。能登地方が細長い半島であるが故に、道路の本数は多くなく、限られた道路が寸断されたことによって、孤立集落が多発してしまったのです。

 能登半島では、かつては鉄道も、今より長く走っていました。今は、第三セクターののと鉄道が半島の途中の穴水駅まで走っていますが、以前は奥能登の蛸島駅、そして西側の輪島駅まで走っていたのです。

 しかし赤字路線ということで、鉄道の線路はぐっと短縮。能登半島での移動は、車に頼らざるを得なくなったのです。

 このようにして、能登半島といえば、同じ石川県内であっても交通が不便な地という印象になったわけですが、しかし過去にさかのぼってみれば、そこは非常に先端的な地域として存在していました。自動車や鉄道といった手段がなかった江戸時代は、海運が中心。特に日本海側は、大阪と蝦夷地を結ぶ北前船が、物品のみならず様々な情報も運ぶ、日本の経済と文化のメインルートだったのです。

 日本海に突き出る能登半島もまた、北前船の時代は交通の要衝として機能していました。能登には、時国家という重要文化財のお屋敷がありますが、こちらの家も北前船によって巨万の富を築きました。しかし明治以降、鉄道や自動車といった陸を走る交通手段が発達すると、能登半島は交通の要衝ではなくなり、陸路では行きにくい僻地となってしまったのです。

 海路の時代であれば、地震の被害にあった能登半島の集落も、決して「孤立」とは言われなかったことでしょう。半島は、海を通じて様々な地とつながることができる場所なのですから。

 しかし、交通=陸路、と私たちが思い込んでいるからこそ、人々は道が繋がっていない地を、孤立と言ってしまうのではないか。

 日本人は、かつて海と共に生きていた時代の記憶を、失いかけているのかもしれません。日本海が経済のメインルートだった時代、能登半島は船を漕ぎ出せばどこへでも行くことができる地でした。世界有数の海岸線を持つ日本では、能登のような場所は多いのかもしれず、今回の震災は、日本人が海との繋がりを思い出すための一つの契機となる気がしてなりません。 


酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『鉄道無常』(角川文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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