お寺にお墓があるのはなぜ? 僧侶が読み解くお墓の起源
地域差はありますが、お寺にお墓があるのは珍しくありません。しかし歴史を見ると、お寺は最初から墓地を持っていたわけではなかったのです。お墓とお寺の関係、そしてお墓のあり方は、時代によって変化してきました。そもそも、お墓参りにはどんな意味があるのでしょうか。
意外に新しい「○○家之墓」
現在、多くの墓石に「○○家之墓」と刻まれています。それ以外の言葉が書かれていることもあります(浄土真宗では「南無阿弥陀仏」と刻む習慣になっています)が、どのような言葉であれ、その家で代々受け継いでいくお墓です。この習慣は、実は新しいものです。
「○○家之墓」と書かれた墓が主流になったのは明治30年代(西暦で言うと1900年頃)と指摘されています。古いものでも、江戸後期のものです。
それ以前は、お墓は家単位ではなく、個人単位で建てるものでした。墓石にその人の法名(戒名)を刻みます。かつては土葬が多く、複数の遺体を一カ所に納めるのが難しかったのです。
「一人につき一つお墓を建てていたら、町がお墓だらけになるのでは?」と思われそうですが、そうではありません。まず、お墓を建てるには費用がかかります。だから、誰もが墓石のあるお墓を作ることができたわけではありませんでした。
江戸時代のお墓については地域による違いがあるので一概には言えませんが、江戸の町の場合、お寺はお墓を建てる区画と別に、お墓がない人の遺体を納める場所を用意していました。また、江戸には地方から仕事に来ていて、江戸に身寄りがない人がいました。そのような人も、亡くなるとその区画に葬られました。
それだけではありません。個人のお墓がある場合でも、そのお墓に何年もお参りがないと、お寺は「無縁になった」という扱いにして、更地にします。そのお墓に納められていた遺体や遺骨は、お墓がない人用の区画に移されます。更地になった所には、別の人のお墓が建つことになります。
このため、一人につき一つのお墓を作っていても、お墓だらけになるということはなかったのです。
さて、今ではお墓は家で代々受け継いでいく習慣になっています。しかし、家族のあり方が変化して、「お墓を代々受け継ぐ」ことが難しい例がよく見られるようになってきました。これは私の予想ですが、これからは江戸時代のように、家ではなく個人のお墓を、いずれ撤去する前提で建てるようになっていくのではないでしょうか。
お寺に墓地があるのはいつから?
今では、たいていのお寺に墓地があります。しかし、最初からそうだったわけではありません。
日本に仏教が伝わったのはおよそ1500年前ですが、それ以前から日本にお墓はありました。日本に仏教が伝わっても、お寺とお墓は別でした。
例えば、聖徳太子(574~622)は日本に仏教を取り入れることに非常に熱心で、法隆寺を始めとしてさまざまな寺院を建てています。しかし聖徳太子のお墓は、これらの寺院にはありません。
お寺に墓地を作る習慣が広まったのは、平安時代のことでした。平安時代の歴史書『栄花物語』『大鏡』に、藤原道長(966~1028)が一族の墓地を訪れた話があります。
墓地はすっかり荒れ果てていて、どこの誰の遺体が納められているのかわからず、お参りに来る人がいないというありさまでした。
これは、亡き人の供養についての考えが、今と違っていたからです。平安時代の貴族にとって、亡き人の供養とは寺院で法事をすることであって、墓参りの習慣がありませんでした。墓地は、遺体を納めた後はとくに用事がない場所だったようです。
もっとも藤原道長は、遺体を納めた場所が荒れているのは、先祖に申し訳ないと思ったようです。一族の墓地を整地して、読経の鐘が先祖の遺骨に聞こえるように、仏堂を建てました。これは、墓地が先で、後で寺院を建てたことになります。「寺院に墓地を造った」のではありません。
ただし、寺院と墓地を同じ土地に造るのは、藤原道長が最初ではありません。平安初期の仁明天皇(810~850)の陵に、嘉祥寺を併設したという記録があります。もっとも、現在の仁明天皇陵・深草陵(京都市伏見区)には寺院がありません。そもそも、現在の深草陵は江戸時代の天皇陵修復事業によって整備されたものであって、仁明天皇の本来の陵は別の場所だと推定されています。
これより後の時代の天皇陵についても、管理していた寺院が廃絶したことなどが原因で、一時期所在不明となった陵は少なくありません。江戸時代から明治時代にかけての研究でかなりの陵が特定されましたが、鎌倉時代や南北朝時代の天皇でも正確な埋葬地を特定できなかった例があります(その場合でも、その天皇の陵として指定された墓所が存在します)。
仁明天皇のように、「○○天皇陵」と呼ばれている地に本当にその天皇が葬られているのかどうか、学術上疑義が示されているものは少なくありません。こうなってしまったのは、埋葬地への関心が薄い時代があったからです。
また、先ほどお話しした聖徳太子の墓は叡福寺(大阪府太子町)にあります。しかし、叡福寺は聖徳太子の生前にはありませんでした。叡福寺の寺伝では、聖徳太子が亡くなった後、推古天皇(554~628)から土地をあたえられて寺院が建立されたとされます。しかし学術的には、創建は平安後期の11世紀中期~12世紀中期あるいは鎌倉時代の12世紀末~13世紀前半と推定されています。いずれにせよ、墓地が先で寺院が後です。
なお、寺院と墓地が併設されているのは日本だけではありません。インドの仏教遺跡の調査・研究に取り組んでいる島田明氏(ニューヨーク州立大学ニューパルツ校教授)は、古代インドでも僧院・仏塔が墓地に隣接しており、これは仏教僧が葬儀などの儀礼を担っていた証拠だと指摘します。島田氏は、仏教僧が葬儀や墓地に関わっていた理由として、古代インドでは死は不浄とされていたが、仏教は死を不浄と見ないことを挙げています。
亡き人にお参りすることは、
亡き人から教わることでもある
仏教は約2500年前のインドで始まりました。仏教を開かれたのはお釈迦さまです。お釈迦さまの遺体は、どうなったのでしょうか?
お釈迦さまの晩年を記した経典『大パリニッバーナ経』に、このような話があります。お釈迦さまは高齢になり、先が長くないと察して、仕えていた弟子・アーナンダに、自身の亡き後は遺体を火葬し、遺骨を納める塔を建てるよう伝えます。その塔について、こうおっしゃっています。
「ストゥーパ」とは、遺骨を納めた塔です。とくに、仏舎利(お釈迦さまの遺骨)を納めた仏塔を指します。このお釈迦さまの言葉の中に、修行完成者(すなわちお釈迦さま)の遺骨を納めた仏塔に、花と香を供えなさいとあります。今でもお墓にお花とお香をお供えしますが、これはお釈迦さまの時代からあった習慣です。
そしてお釈迦さまの言葉には、仏塔を拝むと、心が清らかになり、この世の命が尽きた後に良い世界に生まれるとあります。
ここで注目したいのは、その続きの箇所です。「修行完成者の教えを聞いて実行する人」についても、そのストゥーパ(遺骨を納めた塔、つまりお墓)を建てることを説いています。それを拝むと、心が清らかになり、この世の命が尽きた後に良い世界に生まれるとあります。これは、お釈迦さまの仏塔をお参りした時と同じ結果になるということです。
心が清らかになって良い世界に生まれるとは、お釈迦さまの教えを聞いた人の利益のはずです。それが、お釈迦さまだけでなく、他の人の遺体を納めた所にお参りしても同じになるとは、どういうことでしょうか?
私が思うに、亡き人にお参りをすることは、亡き人への関心を呼び起こし、それが亡き人から教わったのと同じ結果をもたらす、ということなのでしょう。
例えば、毎年8月には全国で戦没者を追悼する行事が開かれます。戦没者を追悼することは、戦争や平和について考えるきっかけになります。それを考えるようになって理解が深まったなら、それは戦没者から戦争や平和について教わったようなものです。
それと同じことが、仏塔などにお参りすることについても言えます。お釈迦さま、あるいはその教えをより所に生きた人にお参りすることは、お釈迦さまの教えについての興味を引き起こすきっかけとなります。お釈迦さまの教えについて理解を深めたなら、それはお釈迦さまから教わったのと同じ結果をもたらします。
お墓参りについて、「亡き人のためにすること」と思われることが多いのではないでしょうか。実はそれだけではなく、亡き人から何かを教わりに行くに等しい、自分のためにもなる行為とも言えます。
お寺の塔は何のためにある?
お釈迦さまが火葬されると、仏舎利は8等分されました。そして、仏舎利を納める塔が8カ所に建立されました。これと別に、仏舎利を量るのに用いた瓶を納める塔と、火葬後の炭(または灰)を納める塔も建てられました。
その後、仏舎利はさらに分配されて、インド各地に仏塔が造られました。仏塔は崇拝の対象となり、教えを説く場ともなりました。
やがて、仏塔はお釈迦さまと同等の存在と見なされるようになり、仏塔を崇拝すれば仏になるという教えを説く派も現れました(以前、仏塔を崇拝する人々の間から大乗仏教が始まったという説が提唱されたことがあります。近年まで有力な説でしたが、これに対して現在ではさまざまな疑念が呈されています)。
さて、仏舎利はインド以外の地にも伝わり、それを納める塔が建てられました。日本でも五重塔などの塔がある寺院がありますが、そこには仏舎利が納められています。もっとも、お釈迦さまの遺骨だけではすべての塔に足りませんので、多くの場合、代わりに宝石を納めています。それでも、仏舎利(またはその代わり)を納めているのですから、お釈迦さまのお墓のようなものです。
親鸞聖人のお墓が本願寺の始まり
浄土真宗を開かれた親鸞聖人(1173~1263)のお墓は、どうなっているのでしょうか? 親鸞聖人は生前、「某親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」とおっしゃっていました。この言葉は、親鸞聖人のひ孫に当たる覚如上人(1270~1351)の著『改邪鈔』に記されていますが、実際にはお墓がつくられました。
親鸞聖人は弘長2年11月28日(1263年1月16日)、90歳で亡くなりました。遺体は鳥野の(京都市東山区)の南で火葬され、遺骨は鳥辺野の北に納められました。
始めは簡素なお墓でしたが、10年後の1272(文永9)年の冬、吉水(京都市東山区)の北に改葬されて、親鸞聖人の像を安置した廟堂が建てられました。
この廟堂には多くの人が参拝に訪れました。覚如上人が1294(永仁2)年に著した『報恩講私記』に「廟堂に跪きて涙を拭ひ、遺骨を拝して腸を断つ。入滅年はるかなりといへども、往詣挙りていまだ絶えず」とあります。 親鸞聖人の意図はとにかく、遺骨が尊ばれていた様子がわかります。
1312(正和元)年、親鸞聖人の廟堂に「専修寺」の額が掲げられました。ほどなく、名が「本願寺」に改められました。親鸞聖人のお墓が発展して、本願寺となったのです。
後に本願寺は何度も移転しているので、最初の廟堂の地と、現在の本願寺の場所は異なります。廟堂は当初の位置にあり続けましたが、1603(慶長8)年、知恩院拡張のため移転することとなりました。そして築かれたのが、現在の大谷本廟です。大谷本廟には親鸞聖人の遺骨を納めた祖壇と、その拝堂として明著堂があります。
なお、親鸞聖人の遺体が火葬された地は大谷本廟の北東とされ、現在「お荼毘所」となっています(火葬の地について、それより南の延仁寺とする説もあります)。親鸞聖人の最初のお墓が建てられたのは知恩院大方丈の辺り、廟堂があったのは知恩院境内の崇泰院辺りと推定されます。
親鸞聖人亡き後にお墓ができ、それが発展して本願寺ができました。これを中心に集まった人々の組織が教団となり、親鸞聖人の教えが現在まで受け継がれています。親鸞聖人の墓所として、本願寺派(西本願寺)の大谷本廟の他に、大谷派(東本願寺)の大谷祖廟(京都市東山区)や、高田派・専修寺(三重県津市)境内の御廟もあります。
余談ですが、高野山(和歌山県)の奥の院に親鸞聖人墓とされる墓所があります。高野山の西禅院のウェブサイトによると、親鸞聖人が63歳のころ高野山で念仏の行に励み、同院には親鸞聖人自作の自像があるとのことです。本願寺の記録と大きく異なりますが、興味深い伝承です。
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仏教は初期から、墓地と密接な関わりを持ってきました。
まず、お釈迦様が亡くなると、その遺骨(仏舎利)を納めた塔が造られました。その塔は崇拝の対象となり、教えを伝える場ともなりました。親鸞聖人の場合も、墓地が発展して本願寺となりました。遺骨を納めた場は、教えに遇う場でもあることになります。
お墓にお参りすることは、今回ご紹介したお釈迦さまの言葉にありますように、お参りした人のためにもなる行いです。そう考えると、お墓はむしろ、残された人のためにあると言うことができるでしょう。
(文/編集委員・多田修)
【参考文献】
・井上亮著『天皇と葬儀』(新潮社)
・岩田重則著『「お墓」の誕生』(岩波書店)
・岩田重則著『墓の民俗学』(吉川弘文館)
・小野一之著「聖徳太子墓の展開と叡福寺の成立」(『日本史研究』第342号所収)
・勝田至編『日本葬制史』(吉川弘文館)
・『五来重著作集第12巻 葬と供養(下)』(法蔵館)
・Akira Shimada(島田明)“Amaravati and Dhānyakaţaka:Topology of Monastic Space in Ancient Indian Cities”(Oxford University Press,Buddhist stupas in South Asia)
・新谷尚紀著『お葬式―死と慰霊の日本史―』(吉川弘文館)
・杉本卓洲著『ブッダと仏塔の物語』(大法輪閣)
・外池昇著『検証 天皇陵』(山川出版社)
・中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』(岩波書店)
・西木浩一著「江戸の墓制と身分」(『歴史と地理』第580号所収)
・西木浩一著「江戸の社会と「葬」をめぐる意識―墓制・盆儀礼・「おんぼう」―」(『関東近世史研究』第60号所収)
・平川彰著『二百五十戒の研究Ⅲ』(春秋社)
・本願寺史料研究所編纂『増補改訂 本願寺史 第1巻』(本願寺出版社)
・松村博司校注『大鏡』(岩波書店)
・松村博司・山中裕校注『日本古典文学大系75栄花物語(上)』(岩波書店)
・山口哲史著『四天王寺史・叡福寺史の展開と聖徳太子信仰』(関西大学)
京都にある荼毘所などを記載した、親鸞聖人聖躓図。『御伝鈔 御俗姓(現代語版)』(著/
浄土真宗本願寺派総合研究所、本願寺出版社)167ページより抜粋。