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物質に意味は無いし、写真は言葉でもある|『中平卓馬 火―氾濫』レポ

私は写真が分からない。
これまで50万枚はゆうに超える量を撮ってきても、まだ分からない。

いや、そもそも写真なんて無意味なんじゃないか。
そんなふうに思わせてくれる展示。
「中平卓馬 火―氾濫」(国立近代美術館)

展示そのもののレポートというよりは、展示を見て考えさせられたことのまとめ。
裏を返すと、彼の思考を通じて現在の自分がどう写真に向き合っているかを再考させる展示です。
一言でまとめるなら「つまらない。でも行く価値はある。」そんな記事。

中平卓馬

もともとは出版社に入社した雑誌の編集者。
入社の2年後には会社を辞め写真家へ。
東松照明、寺山修司、森山大道などと親交を深めたのち、会社を辞めた3年後にはかの有名な『Provokeプロヴォーク』を発行するに至ります。
パリビエンナーレへの出展、評論『なぜ、植物図鑑か』刊行、などその他写真集や評論を出したのち、2015年没。

日本写真史を語るうえで欠かせない存在である一方、篠山紀信や荒木経惟、森山大道らと比較して認知度としては低い印象。
生前は写真展への参加へ消極的だったこと、また写真や論が難解だったことも影響しているのかもしれません。

Provoke、風景論、植物図鑑

中平の展示を見た、私の浅い理解。
写真自体が何か特別な価値を持っているという印象はなく。
「写真を通じた論考」を行った人物、です。
ここでは彼の取り組みを3つのステージで分けて整理します。

Provoke

まだ写真撮影が一部の技術者・技能者のものだった頃ですから、しっかりピントを合わせて、露出を設定して、写真を撮って現像できる人自体が限られる時代のこと。
写真は読んで字のごとく「真実を写す」ものでした(photographを直訳しなかった人が悪いと思いますが)。

中平らはそういった既成概念への挑発(=provoke)を行いました。
「アレ・ブレ・ボケ」と称されるような、もはや写真としての機能自体を損ないかねない実験的写真を、同人誌で刊行します。
当時の写真好きの間では技法として流行したそう。

Provokeで重要なのは、写真そのもの以上にステートメントと考えます。
時代背景として、学生運動を始めとした、世界や日本国内の情勢に対する改革をしようとする動きの中で刊行されています。
東京都美術館の図書室で閲覧できる小冊子にこの辺りの記述を見ることができます。
ここで論じられていること、とくにProvoke1でですが、当時の不安定な情勢を写実という手法で捉え、思考を再構築しようとする動きだったように思います

Provoke3
ウォーホルのキャンベルスープ缶からインスピレーションを受けたであろうものから
肖像としての機能が消失したポートレートまである

風景論

高度経済成長に伴い、都市部のみならず地方の開発も進む時代。
松田政男の映画評論にて風景論が論じられることになり、中平がこれに共鳴し中心人物として活動します。
風景論については、それまでの景観が破壊されるという危機感の表明、と大雑把にまとめられるでしょう。

Provokeでは写真の写実性を否定するような論考でした。
しかし風景論の期では草木や道路、都市の部分を写真として切り取ることで、その断面から風景を見つめなおそうとする働きをしています。
また消費の舞台である都市についても論考し、資本主義経済に対しての批判も同時に高まっていきます。

なぜ、植物図鑑か

それまでの自身の論を否定し、「植物図鑑のように」写真を撮ることを取り組みます。
しかしこの期の写真は風景論の頃と地続きのように感じられます。
また私の眼からすると、とてもつまらない。

しかし中平が「消費」という動きに対し反発していたこと、また雑誌への寄稿や写真提供をしていたこと、これらからするに「写真という消費財の価値」について悩ましく思っていたことが、文章から察せられます。

しかし日本、もとい資本主義の国において写真を流通させるためには、消費財として市場に出すしか(当時は)ありません。
現代においてもSNSという営利企業のプラットフォームに乗ったり、あるいは販売したり、いずれにしても市場で消費されます。
こういった事実に対して反発しようとした形跡が「植物図鑑」からはうかがえました。

何をしたかと言えば、どこか中途半端というか。
「これは写真である必要があるのか」という問いに、見ただけでは答えられない。
まぁどの創作においても同じこと言えるのでなんともですが、少なくとも写真自体に意味がなくなり、背景に存在するコンテクスト自体が作品になるパターン。

では、この3つを通したうえで、中平卓馬という人物をどう評するかという話。

物質に意味は無いし、写真は言葉でもある

氾濫【2018年のモダンプリント】
1974年(2018年にプリント)
発色現像方式印画
中平元氏蔵

タイトル回収。

結局のところ、中平卓馬という人物も資本主義の恩恵にあずかることになっています。
晩年の映像が流れており、暖かそうなダウンジャケットに歩きやすそうなスニーカー、リッチなカメラと、それはもう経済発展によるありがたみの享受を受けている持ち物でした。
彼の闘争、もとい当時レジスタンス的に活動した人々の主張は、現代においては下火になっていることは確かですし、すこし期待外れだったなと思ったことは事実です。

そして彼の写真ががなぜつまらなかったといえば、一言で表すならポジショントークです。
ポイントは「写真は美しいのか」

「写真は美しくあるべき」を否定するための作品が”植物図鑑”だとすれば、自明。
仮定として、写真の意味、もとい写真に撮られることで対象の被写体に意味が宿るとき、その意味の根底に存在するのは「美しい」です。
この意味を取り払った時、この世に存在するありとあらゆる物質の価値はみな均一に無、ということになります。
美しくない写真は、つまらない。

とすると、私の撮っている役者さんも~なんてなりかねないので、私はポジショントークとして「美しくある」と論じます。
この点においては中平と対立します。

一方で、彼の写真において言葉は切り離せない要素です。
彼の言論はエネルギーに満ち溢れており、無鉄砲のようにも見え、ある種のカリスマ的魅力を放っています。
そして写真の背景にも言葉が存在していることを否が応にも感じ取らせるのです。

写真は言葉でもある。
被写体や写真そのものの価値とは別に、写真は言葉を含んでいて、写真が美しかろうと美しくなかろうとメッセージを発している。
中平の活動の根底には常に思考や言葉があり、それを写真に語らせていたのではと考察します。
この部分に関しては彼を見習うべき、私はより思考を洗練させるべきだと、強く思わされました。

おわりに

展示の物量に対して入場料が安かった。
1,500円、東京都写真美術館と比べたら倍だけど、ほかの美術館からしたら安い。
写真展示はお財布にやさしい。

一言いえるのは、印象派やキュビズムなどの、国内では王道な絵画展みたいに「見ているだけで楽し~教養たかまる~友達と話すネタになる~」なテンションで行くと絶対つまらないです。
これまで大々的な展示が少なかった中平卓馬という人物への知見を高めて、日本写真史への造詣を~とか高尚なこと思ってないけど勉強したいなくらいのテンションで行くのが吉。

裏を返すと、自分が目指そうとしているルートはつまらなくなるという危機感を覚えたことも事実です。
アートの文脈と、見て楽しむ側面、両方を兼ね備えたい…やっぱ印象派だな
なので私はモネとルノワール目指すのでした。

おわり。

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