恋文供養人 第5話「黒猫」
「あのさぁ、ライトなやつ、ないかな。フミコさんの時みたいなヘビーなやつはちょっと……」
「ライトとかヘビーとか、重さは関係ないと思いますが」
「いやいや、感覚の問題だよ。その……上手く言えないけどさ。フミコさんはとてもいい人だったけど、なんかもういろいろと救いようがなかったじゃない?」
「確かにあれは、私が見てきた中でもなかなか、でした」
「でしょう?」
正直、あのレベルのものが来たら、もう立ち直れないかもしれない。
水割りの中の氷をぐるぐる回していると、マスターは「少しお待ちを」と言って奥の方に消えた。
「にゃう……」
カウンターの左から大きな黒猫がのっしのっしと歩いてきて、目の前にでーんと横たわった。
「ん? 迷い込んできたのか?」
「本日のゲスト様です」
「おー、そうかそうか」
首から背中をゆっくり撫でると、黒猫は小さく「にゃあ」と鳴いて目を閉じた。
「よしよし。人間よりも全然いいや。人間は怖いから。マスター、この子の名前は?」
「1つ目はノワール。もう1つがニックです」
「えーと、説明してくれるかな?」
「この子は少しばかり数奇な運命を辿りまして」
そう言うと、マスターは大きな紙と小さな紙を持ってきた。片方はA4用紙で、もう片方は大きな画用紙のようだ。どちらにも黒猫が描かれているが、雰囲気は全く違う。A4用紙の方は、グラフィックソフトを使った、まるでプロが描いたような芸術的な絵。画用紙の方はクレヨンで、おそらく子供が描いたものだろう。
「この子は生まれたばかりで捨て猫になったのです」
「にゃんと……」
動物系の悲しい話は聞きたくないが、さすがに「やめろ」とは言えない。黒にゃんこを撫でながら続きを待つ。
「小さな段ボール箱に入れられて、公園の片隅に捨てられていました。段ボールの隙間から何とか這い出し、ベンチの下でうずくまっている時、偶然にもある女性が会社からの帰り道にそこを通りかかったのです」
「いつもはそこを通らないのに?」
「ええ。その公園は夜になると薄暗くて、以前は不審者が出たので、夕方以降に人が通ることはほとんどなかったそうです。でも、その人は仕事で疲れていたので、その日はたまたま夜にその公園を通り、光る眼を見つけてすぐに猫だと分かったみたいです。真冬で気温は零度。その人が通りかからなければ、その子の命は危なかったでしょう」
「よかったよかった……。まさに奇跡のタイミング」
「女性はその子を自宅マンションに連れて帰り、夫と一緒に朝まで手厚く看病しました。そして会社を休んで、その子を動物病院へ連れて行ったようです」
「うんうん。お前は運がいいぞ」
黒にゃんこはだらーんと伸びて、ごろごろと喉を鳴らしている。猫は液体、というのはやっぱり本当のようだ。
「名前は奥様が考えた『ノワール』に決まりました。フランス語で『黒』を意味するそうです」
「オサレだねぇ。いいセンスしてる」
「旦那さんの案もありましたが、即却下されました」
「へぇ。旦那さんの考えた名前は?」
「にゃんごろう」
「ないわ」
ノワールとにゃんごろう。あまりの違いに笑いそうになった。いや、にゃんごろうもアリと言えばアリだが、少なくとも目の前にいる黒にゃんこには似合わない。
「奥様はグラフィックデザイナーで、ノワールの絵を取り入れたデザインが大きな案件のプレゼントで通ったとか」
「ああ、それで」
僕はさっきのA4の紙を指差した。
「奥様は仕事でスランプに陥っていました。でも、ノワールを中心にしたデザインが次々とヒットし、会社内でもエースデザイナーとして活躍するようになったようです」
「お前、大活躍だにゃー! まさしく幸運の黒にゃんこ」
「旦那さんの方は面白くなかったようですね。生活の中心がノワールになり、奥さんはノワールに夢中になっているわけですから」
「そりゃまぁ、そうだねぇ」
僕はノワールを抱えて膝に乗せた。ずっしりと重い。そして温かい。
「もしかしてお前、旦那さんに虐待されたとか?」
ノワールは僕の顔を見上げて「うにゃ?」と鳴いた。さすがは人類を滅ぼすと言われている動物だ。この可愛さはリーサルウェポンと言っていい。
「少し違います」
「少しってことは……」
「もっと悪いです」
「あーダメダメ。怖い怖い……」
ノワールの両手を取ってぶんぶん振り回す。
「いいよ。今日はいい話だけ聞いて、ノワールと戯れて帰る」
「では、続きはよろしいんですね?」
マスターはじっと僕の目を見た。
「続き、お願いします……」
マスターは大きく頷く。
「旦那さんは、奥様の前ではノワールを可愛がっていました。ただ、奥様がいないところでは、ノワールに向かってずっと『死ね』、『消えろ』などと言っていました」
「マジか……。とんだサイコ野郎だな」
「でも、直接的な暴力などはなかったみたいですね」
「口で言うだけ?」
「そのようです」
「なーんだ。そんな陰気なチキン野郎、相手にすることないにゃー!」
ノワールの両手を取って、バンザーイをする。
「ある日、奥様と旦那さんは、友人とキャンプに行くことになりました」
「え……続くんだ。まぁ、そりゃそうか」
ここで終わったら、本当にただのいい話で終わってしまう。それに、もう1つの名前の「ニック」が気になる。
「キャンプ中も、ノワールは主役でした」
「あらー。当然、旦那さんは面白くないわけだ」
「その通りです。旦那さんはコンビニに買い物に行くと言い出し、みんなの目を盗んでノワールを車に乗せました」
「ちょっとちょっと……」
膝の上のノワールを抱き締めた。嫌な予感がする。
「そして人気のない場所に車を停めて、そのまま崖の下に放り――」
「ストップ! もういい! もうたくさん」
マスターが黙る中、僕が深呼吸をする息づかいと、ノワールがゴロゴロと喉を鳴らす音だけが響く。
「ノワールは生きていました」
「にゃんと!」
ノワールのお腹をもみもみする。
「どうして? もしかして不死身にゃんこ?」
「崖の下は川で、瀕死の状態で流されているところを、川遊びをしていた親子に発見されたんです。その親子は地元の人で、ノワールはすぐに動物病院に運ばれ、一命を取り留めました」
「よかった。九死に一生、いや、百死に一生だな」
「ノワールはそのまま親子が引き取り、『ニック』と名付けられ、第2の人生を歩むことになります」
「人生というか、猫生だけどな」
変なツッコミを入れてしまい、マスターは「そうですね」と苦笑する。
「よく生き延びたなぁ。なかなかのタフガイにゃんこだ」
ノワール、じゃなくてニックの頭をポンポン叩くと、耳がピクピクと動いた。いちいち可愛い。
「あとはクソ旦那の方。地獄に落ちれば申し分なかったのに」
「落ちましたよ。くも膜下出血であっけなくお亡くなりになりました」
「え? マジで?」
勢い任せで口から出た言葉が、途端に重みを増したような気がして怖気づいてしまった。
「あのさ、それって偶然だよね?」
「偶然、と言いますと?」
「呪い……的な何かではない?」
「さぁ。呪いは専門外なので」
「あー。なるほど」
別に偶然でも呪いでも、どっちでもいい。クソ旦那の方は、それだけのことをしでかした。その報いは受けて当然だ。
「ちなみに、クソだん……亡くなった旦那さんの奥様は、その後再婚して、東京グラフィックアワードで特別賞を受賞しました。奥様、受賞スピーチでこう言ったそうです。『突然現れ、突然姿を消した黒猫のノワールのおかげです』と」
「そっか」
奥さんは知らないだろう。愛するノワールを、自分の旦那が崖から放り投げ、瀕死の重傷を負わせたこと。そして別の家族の元でニックという新しい名前をもらい、生き延びていたなんてことを。
「マスター。ニックはどのくらい生きたの?」
「新しい名前をもらった家族と一緒に17歳まで生きました。人間の年齢にすると84歳。長生きしましたね」
ニックは僕の膝からカウンターに上がり、大きく伸びをした。
「にゃごにゃご……」
「お? いくのか?」
ニックは飛び上がり、僕の頭を軽々と越えた。84歳とは思えない、見事な跳躍だ。
音もなく着地した瞬間、ニックは僕の方を見て、大きな声で「にゃー!」と鳴く。
「ああ、元気でね」
手を振ると、ニックは闇に溶けた。
「猫と会話ができるんですか?」
「できるわけないでしょうが」
最後にニックが僕に――僕らに言ったことは分かる。
「バイバイ」
きっとそうに違いない。
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