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ヨコハマ・ラプソディ 5

五.江の島 

ついにゴールデンウイークを迎えた俺たちは、横浜から少し離れた江の島まで出かけることになった。
俺が江の島を訪れるのは、これが二度目ということになる。普段は滅多に遠出をすることなどなかった俺だったが、サザンオールスターズの曲にも出てくる茅ヶ崎や江の島とはどんなところか、一度この目で見てみようと好奇心にかられ、半年ほど前に南武線に乗り、登戸駅で小田急線に乗り替えて一人で見に行ったことがあった。
サザンの曲が特に好きな訳ではなかったが、彼らが歌う、海を舞台にした男女にまつわる世界への憧れみたいなものは、やはり俺の心のどこかにあったのだろう。
その時は、思った以上にカップルばかりで場違い感が強く、早々に立ち去った。
江の島自体はなんてことのない島に思えただけだったが、近くの砂浜を訪れた時、海の水が、あまりにも黒いことに愕然とした。汚いではなく「黒い」のだ。
佐賀の唐津の海水とは、別物と言っていいほどの水の色。でも、夏はここが海水浴場になるという。こんな黒い海に人が入って泳ぐなんて、となんだか複雑な気持ちだった。

俺にとっては初めての女性との遠出である。遠出と言ったって、それほど大した距離ではないけれど。
でも、いつも横浜で志織と会う時とは違う、ちょっとワクワクする、それと少しだけ憶える胸騒ぎ感に、俺は前の晩あまり眠れなかった。

この日の朝、横浜駅で会った志織は、青を基調とした爽やかな服装だった。彼女の半袖姿は、俺に少し早い夏を感じさせてくれた。その姿がやけに眩しく見えて、しばらくの間、俺は志織を正視できなかった。
横浜駅から国鉄の東海道本線で藤沢駅まで行き、小田急江ノ島線に乗り換え片瀬江ノ島駅で降りる。それは片道約一時間ちょっとの道のりの、小旅行とも言えないほどの、ささやかな旅だった。
電車の中はゴールデンウイークというだけあって、家族連れなどの乗客が多い。ガヤガヤとあるいは、子供たちのキャッキャと話す賑やかな声であふれている。
四人掛けボックス席の窓側に志織を座らせ、俺は相変わらずの志織の長いおしゃべりに付き合っていた。

「はい、これ」
志織がクッキーを俺にくれた。
「ありがとう」と言って手に取った。少しドキドキ。
なにせこれまで何度か、志織から料理の失敗談を聞かせられていたからだ。果たしてお菓子はどうなのか。
ひと口かじってみた。
「どう?」
志織が不安そうな顔で俺の目をのぞき込む。
「うん、美味しい」
「よかったー。私、お菓子作ること自体は好きなんだけど、時々失敗しちゃうから、信也さんの口に合うか心配だったの」
「大丈夫だよ。充分美味しい」
それは優しい甘さと多少のほろ苦さ、それとやや歯ごたえのある、けれど俺にとって今まで食べた中で、お世辞抜きに正真正銘一番美味しいクッキーだった。

志織と一緒に電車に揺られながら、線路沿いに咲く花々など、車窓から見える春らしい風景を眺めていた時、俺はいつしかふと「赤いスイートピー」の歌詞を思い出していた。
この年の一月頃に発表された、松田聖子さんが歌う歌詞もメロディーも印象的な曲。
いい曲だなとは思ったが、あんな歌詞のような甘酸っぱいロマンティックな状況は、今の俺には当分縁のないものと、諦めのため息をついていたのは、つい最近のはずだったのに。
それが今は、志織とこうして電車に乗って海に向かっている。なにより志織が俺のそばにいることが、半ば当たり前のようになりつつある。本当は当たり前ではなく、奇跡的なことなのだが。
俺は今のような状況がずっと続いていけばいいなとぼんやりと考え、志織のおしゃべりを聞きながら、心地よい列車の振動に身をゆだねていた。

藤沢駅まではもう少しだなと俺が思っていた頃、ある駅で俺たちと同じ車両に、母親とおぼしき二十台後半ぐらいの女性と、三、四歳くらいの愛くるしい顔をした娘さんらしい二人が一緒に乗り込んで来た。
彼女たちは仲よく手を繋いで、俺たちのすぐ横を笑顔で通り過ぎていく。女の子の嬉しそうな顔がなんとも微笑ましい。
「それでね、そのオムライスはお父さんにも結構評判だったの……」
と、それまで自分が作った料理の成功談を明るく笑って話していた志織が、いつものおしゃべりな口をパタと閉じた。志織の方を見ると、難しい顔をしている、と思ったら、すぐに険しい顔になった。
「なにか聞こえた?」と、一瞬声が出そうになったが、俺はあえて黙っておいた。
目の前は人もいるし、なにか言いたいことがあれば、そのうち自分から話すだろう。
親子連れらしい二人は、俺たちが乗っていた車両には、二人で並んで座れる空いた席がないのを見て取ったのか、すぐに隣の車両へと移っていった。
俺は少し志織の様子を見てから、別の話題に話を切り替えた。
「前に横浜の首都高速道路で測量のバイトをしたって、話したことがあっただろ。あの時の先輩、今度は首都高の別の現場で同じことやらかしたらしいぜ」
「やだ。えー、本当に?」
俺の話に志織は少し笑ってくれた。
でも、目は笑っているようには見えなかった。

片瀬江ノ島駅で電車を降り、駅前に立った俺たちは思わず同時に大きく背伸びをし、お互いがそれを見て笑い合う。俺の目には志織の機嫌も、すっかり良くなったように見えた。
でも、さすがにゴールデンウイークだ。おまけに好天に恵まれたせいもあって、江の島への人出は俺の想像以上に多かった。なかでもやはり、カップルが目に付く。
俺は半年前のうすら寒い時期に一人で江の島に来た時のことを思い出し、志織の横顔を見て、なにやら嬉しさがこみ上げてきた。
そう、俺はあの時とは違い、もう一人ではない。しかも、俺のすぐ隣にいるこの可愛い志織と相思相愛の仲なのだ。
俺は、にやけ顔が止まらなくなっていることを自覚していた。

駅から江の島まで歩く人の数も多かったが、江の島に着いてすぐの、土産物屋さんらが立ち並ぶ狭い路地の混雑は凄まじかった。
「それにしても凄いな、この人混み」
「そうね。ゴールデンウイークだからね。仕方ないよ」
「志織。あのタコせんべいってやつ、美味しそうだよな。食べてみる?」
「うん。でも私、こういう人がごちゃごちゃしているところって、あんまり好きじゃないのよ。お土産屋さんは帰りにゆっくり見ることにして、とりあえず上まで行かない?」
「ああ、そうしようか」
幾多の人波をかき分けるようにして進んだあと、江島神社へ続く長い階段はちと遠慮して、俺たちは左手にある有料エスカレーター、「江の島エスカー」を利用して展望灯台に着いた。確か俺が半年前に来たのはここまでだった。展望台に登るのは有料だったからだ。
俺は二人分の料金を払い、志織とちょっぴりスリリングな年代モノのエレベーターに乗り込んで灯台の上に登った。展望台では、三百六十度の大パノラマが俺たちを待ち受けていた。
「おーっ! いい眺めじゃん。いや、最高!」
「ほんとー。富士山が雪をかぶってて、とってもきれーい!」
志織も喜んでいるし、寝不足を押し早起きしてまで、江の島まで出向いてきた甲斐があった。
伊豆半島や伊豆大島も含めた眺望を一通り楽しんでから展望灯台をあとにした俺たちは、長い石段を下りて神秘的な雰囲気の江の島岩屋まで足を延ばし、ちょっとした探検気分を味わった。
そのあと、また少し戻って付近の食堂で少し早めの昼食を取ることにした。少々待たされたが、運よく海が見える席に案内してもらった。しらす丼がおすすめということで、二人ともそれを頼んだ。
正直、俺はあまり期待していなかった。所詮しらすだろうと。所詮ちっちゃな稚魚がいっぱい載っかっているだけだろうと。だが、世間知らずな俺の予想はあっさり覆された。
「えっ、しらすってこんなに美味しいものだったのか!」
「そうだよ。相模湾のしらすは美味しくて昔から有名だよ」
「そうだったのか。知らなかった」
志織は普通に美味しそうに、しらす丼を頬張っている。例え近くても志織と一緒に旅をすれば、また俺の知らない美味しいものが味わえるかもしれない。今度は二人でどこに遠出をしようかと、楽しみが増えた気がした。
食事を済ませたあと、俺たちは稚児ヶ淵へと、再び石段を下りて行った。案内板によると江の島の西南端に広がる広い岩場は、関東大震災の時に隆起したものらしい。自然の力とはこうまで凄いものなのかと、俺は畏敬の念さえ覚えた。
稚児ヶ淵からも富士山がきれいに見えた。波越しに見る富士もまた格別である。波は少々荒かったが、俺は海辺にある岩礁帯が大好きだ。
「私、子供の頃にもここに来たことがあるのー」と、志織も童心に帰ったようにはしゃいでいた。彼女が浮かべる満面の笑みに、俺のこれまでの疲れは一気に吹き飛んだ。

ふと、俺は電車の中で見かけた、あの母親と娘さんらしい姿を見つけた。笑いながら手を繋いで、波しぶきが上がる岩の先まで楽しそうに歩いていく。二人の姿はどう見ても、ごくごくありふれた、仲のいい親子連れにしか見えない。
「行こう」
急に志織が俺の二の腕を掴んで引っ張った。志織の顔は唇を真一文字に閉じ、目はまっすぐ前を見て、一刻も早くこの場を立ち去りたいと言っている。そのまま俺たちは黙って稚児ヶ淵をあとにした。
俺は志織の手を引っ張り上げながら、幾重にも連なる長い急な石段を登って行った。
志織の手を握ったのは、この日が初めてだった。

俺たちはほとんどなんの会話もせず、気まずくなった雰囲気のまま歩いていき、やがて多くの観光客が行き交う表参道から分かれた裏参道を進んでいった。
道幅も狭く歩く人もまばらな道の途中で、人影のない木陰にあった小さな古ぼけたベンチを見つけ、俺たちはひとまず、ベンチで二人並びながら腰を下ろし一息ついた。
俺は志織に思い切って聞いてみることにした。

「やっぱり、なにか聞こえたんだね」
「うん」
「よかったら、なにが聞こえたか、話してくれる?」
「うん…………。あの時電車の中で、『あの二人は本物の親子じゃない』って。そのあと……」
「そのあと?」
「『あの女……女の子を殺そうとしている』って」
「!」
「でもね。でも、さっき階段登る直前、『あの女は迷っている』って声も聞こえた」
「ならたぶん大丈夫だよ。ほんとに殺そうとしてるのなら、もうとっくに殺してるはず」
と、そんな物騒な、なんの慰めにもならない言葉を言って俺はもう一度、志織の膝の上にあった彼女の手を上から握った。
「信也さんごめんなさい。せっかく二人で楽しんでたのに、私のせいで台無しになっちゃって。やっぱりこんな女、気持ち悪いよね」
志織は下を向いたまま、泣き出してしまった。俺の手の甲に、志織の温かい涙がポタポタと落ちてきた。
俺はベンチから勢いよく立ち上がると、志織の方を見て、思い切って言うことにした。
「泣かなくていいよ、志織のせいじゃないし。大丈夫。俺、こういう話、母親で慣れてるから」
「えっ?」
「実は俺の母親も、志織と同じように『声』が聞こえたらしいんだ」
「本当?」
「うん。もっともその話は俺が子供の頃に母親から二、三回聞かされただけだし、俺が物心ついた頃には、もう『声』は聞こえなくなっていたらしいけど」
「へー、そうなんだ」と、手で涙をぬぐいながら、やっと志織が笑顔を取り戻してくれた。そのあともう一度、「そうなんだ」と、俺の言葉を再確認するかのように小さく口にした。
「でも、どうして聞こえなくなったんだろう」
いつにない思案顔をして志織が静かにつぶやく。
俺はその答えを知っていたが、話すと長くなるし、しかも非常に面倒くさい話なので黙っておいた。
「私、信也さんのお母さんに会ってみたい」
志織が俺の顔を見上げて、朗らかに笑った。
「うん、そのうちにね」と、俺も明るく答えた。

今度の夏休み、できるなら志織を連れて佐賀に帰ろうか。そしたら、きれいな唐津の海を志織に見せてあげたいと、彼女の笑顔を見ながら一瞬俺は思った。
だがそれはまだ早い。志織はまだ高校生だ。俺は少し冷静になった。

ちょうど巷では、松田聖子さんが歌う「渚のバルコニー」が流行っていた。
あれはあれで結構「意味深」な歌詞だと思う。夜明けの海が見たい、ということは、つまりどういうことか。でも、曲自体は爽やかな初夏を思わせる素敵な曲である。
けれど俺たちには、あんな歌詞のような真似はまだ似合わないと、帰りの電車の中で俺の肩に頭をもたれ、安心しきったように眠り込む志織の顔を見ながら、俺は思った。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。