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vol.025「ファッションの学校に、サポートで参加して考えたこと② 『何の学校なのか?』がすこしわかってきた~あくまで問い/受け手によって受け取るものが変わる」

政近準子さんの「MFJ(マインドファッションジャパン)」に、ひょんなことからサポーターとして参加させて頂いている。
先週末、全4回のうち3回目の授業が開催された。受講後は、高揚感のような、軽い酔いのような、不思議な感覚が、翌朝以降もしばらく続いた。
小さくない衝撃で、読み返してみても、まだ整理しきれてないけれど、シェアしておきます。


1.「ブレーキがついてない人」


◆「ブレーキ」のなさ、知識の「エンジン排気量」

ファンになり、リピーターになる先生の共通点の1つに、「メニューに値段がない」、すなわち「受講料に合わせた加減をしない=今日は体験版だから、とブレーキを踏まない」というものがある。
第3回の授業、またその前段で目撃したことは、この項目の、とびきりの実例となった。
 
内容に触れられないのがもどかしいけど、アウトライン(「なにが起こったか」の構造)だけ、すこし紹介すると、

①当日の授業:受講生の直近の取り組み事例紹介が盛り込まれていた。テレビ番組に例えるなら、「放送日の直前に構成を変えて最新の情報やニュースを挿し込んで、しかも番組の主旨に合致していた」という感覚。臨機応変なのに、全体としての情報量、価値(意味性)も上がっていた。
 
②前夜~当日:前回の課題(受講生全員からの提出物)に対する全コメント返しが公開された。単にペーパーテストの解答にマルバツ採点をつけるのとはわけが違うのだ。また、コメント返しといっても一言二言ではない。ライブ感あふれる、考えながらの本物の解説だった。

というものだ。※伝わります? 伝わらないですよね...。

そして基本的な疑問。
説明会かどこかでちらっと出てたけど、授業のスライド準備そのものが「前の晩は つい徹夜で作り込んでしまう」だったと記憶してる。その時間を使ってコメント返しをして、授業がはじまったら、タイムリーな企画コンテンツが挿入されている。
どうなってんの?なんなん?5人いるの? と何度目のことか、不可思議な体験だった。 
 
この、『ブレーキを踏まない感じ』と、『知識・体験の量』(アウトプットの量が異常に多い、専門分野について引き出しが尽きることがない)。

これら二つがセットで「政近準子」なのだ。

ヨコ軸に アウトプットできる量(知識のエンジン排気量)、タテ軸に ブレーキの踏まなさ加減(かえりみない感)を取ってプロットしたら、政近さんは右上の象限の人。間違いなく、いちばん角(すみ)にくる人だ。

「知識・造詣 ☓ 熱量」の4象限で考える


◆「他の生徒へのフィードバックも役に立つ」

今回の解説コメントは、その量もさることながら、内容が、当人に響く、刺さるものだった。
リリースされてから夜の開講まで、Facebookグループのコメント欄が大盛況でにぎわう。お世辞や儀礼で書いてるか、リアルに書いてるかは、読めばわかる。誇張でなく「衝撃を受けました」という反応だった。

ひとり平均何分だろうか。約30~40人、合計で数時間。けっきょく全部、再生して聴いてしまった。あの解説と、"製造工程"をじかに、ライブで体感しただけでも、この授業(期)を受講した価値があると思う。

自分以外の受講生へのフィードバック内容を聞いても参考になる」は、良い学校、一級の講師 に共通する特長だ。
 


【追記】第3期になったら、また別のカード、違う表現方法が出てきて、逆にいうと同じものは見られないだろう。毎回レシピを考えて、改造して、出す料理を変えるスタイルだからだ。だとしても、出される料理(プログラム)は、再受講生の反応を見るかぎり、前の回を凌駕してくると想像される。もし興味を持たれたら、一度、次期以降の受講を検討してみるといいと思います。

2.あくまで「問い」であること

学校のなかで、政近さんは、「あくまで問いを投げかけるだけ」と言いきる。

◆「問い」の価値、「答え」の価値

「問いを立てる」ことの価値、「答えを出す」ことの価値について整理してみる。

学校では、問題を出す人が先生で、答案を書く人が生徒だ。先生は給料をもらい、生徒は授業料を払う。
書店で売られているのは「解答集」ではなく「問題集」だ。「解答」はそれ単体では意味をなさない。
問題を作る人と、それを解く人では、解く人のほうが多い。問題集はそれだけで成立する。解答集はそれだけでは成り立たない。。

これらはすべて、
問題を解く能力よりも、問題を創る能力のほうが価値が上である(希少性が高い)
ことを意味している。

問題を解くことが、問題を創ることよりも評価が低くなるのには、一つ条件がある。
他人のつくった問題、かつ、その出題者が正解を知ってる問題を、解く場合」だ。

◆「答え」の価値は、「問いのつくり手が誰か」によって変わる

ところが、前提条件を、「出題者も正解を知らない」に変えてみると、「答え」の価値が変わる。
 
他人のつくった問題(かつその出題者も正解を知らない問題)を、自分が解く」と、立場が逆転する。お金が取れる。コンサルタントだ。
他人のつくった問題を、つくった本人に解かせる」と、やはり価値が上がる。お金が取れる。コーチ、メンターだ。

自分のつくった問題を、自分で解く。答えを決める」のは、トップリーダーだ。例えばオーナー経営者だ。オーナー経営者が、誰かに代わってもらうことはない。
自分のつくった問題を、自分で考える。世に問う」のは、哲学者だ。哲学者は、問いをつくり続ける。ひとつの問いを考え続ける。誰かに代わりに「正解」を見つけて、教えてほしいと思ってない。
 
まだ粗い解像度だけど、
 
(1)「他人のつくった問題に答えを出せる」と、希少価値、経済的な価値が上がる

(2)「自分のつくった問題に答えを出せる」と、代わりの効かなさ、意味性が上がる

と言えそうだ。
  
※哲学の説明として、「答えではなく問いの学問」となにかで読んだけど、たぶん似たことを指摘している。だからMFJの授業で哲学の切り口があるのか。

学校で教える「問いかけるだけ」「答えは自分で見つける」の意義も、これで説明できるように思える。

◆当然、「知識」も必要

ただし、学びを追究するうえでは、「正しい基礎知識」もとうぜん必要だ。

繰り返しになるけど、「服(ファッション)」は、「生きていると必ず付いてくるわりに、学校の授業ではまったく教わらないこと」の代表例だ。

特に、平均的な日本人男性だと、教えてくれる人が身近にいない。日ごろの会話に出ない。本を買わない、読まない(※ファッション雑誌ではなく、仕組みや原理の書籍)、の「ないないづくし」。
このあたりは「言語」や「健康」「料理」との違いで、これらは少なくとも高校までの授業にあるし、身近にも登場する。

MFJの授業でも、知識の要素はもちろん組み込まれている。ただし「この時間は知識の座学」ではなく、「正しい知識が重要だと本人に気づかせる、問いかける講義」の形をとっている。

3.「多様性」の学校


MFJの、もうひとつのキーワードが、「多様性」だ。

◆多彩な参加者

学校の参加者(受講生)の、属性、キャラクターが、非常に多岐にわたる。ほかの、ビジネス系の勉強会(テーマ)と比べても、突出しているように思う。

たとえば「ビジネス交渉力/広い意味でのプレゼン力・営業スキル」のセミナーに行くと、もうすこし参加者の属性(特に職業)や動機、温度感が共通している。数学っぽくいうと、分散が小さい。
これはどちらが良い悪いという問題ではない。分散が小さければそのぶん、懇親会などの交流も効率よく進みやすい。自主勉強会、互いの教え合いなども活発になりやすい、という大きなメリットがある。

MFJの場合、勉強のテーマ(ファッション)の知識もまちまちだけど、それどは別に、参加した動機・勉強の目的・バックグラウンドが多彩で、広範囲にばらついている。数学っぽくいうと、分散が大きい。
※仮に、タテ軸に知識・経験の多い少ない、ヨコ軸に参加の動機(仕事で必要なのか、自身の興味・勉強なのか) を取ると、私は左下の赤い★だ。

MFJの特長「知識・経験値も、動機・背景も人それぞれ」


この参加者の多彩さが、「自動的に、知らない世界の人と接点ができる効果」を、より増幅させている。人は、「知らないこと」について調べることができない。「検索ワード」を持ってないからだ。
接点を持つこと、興味を持つきっかけができることはとても大きな意味を持つ。知らなかったことの検索ワードを手に入れることになる。「こういう自己表現、活躍のしかたがあるのだ」「こんな悩み(影)を抱えて生きている人がいるのだ」と知ることになるからだ。
 
「知らない人と接点ができる効果」は、所属するコミュニティの外に出て、コストを投じて何か学びの場に参加すると、かならず起こる現象だけど、MFJ(ファッション)は、その分散度・流動性が大きいと感じている。

◆発表して、コメントし合う意味

前回触れたように、「自分の答えを発表して、互いにコメント(指摘)しあう」というのが宿題提出の形態だ。「すべてガラス張りで先生が見てる」から、けっこうストレスのかかるメニューだ。

この形を取っている意義はもうひとつあって(※私見です)「どんなに詳しい一人より、"普通のみんなの集合知"のほうが、かならず賢いの法則 がそれだ。

勉強テーマに(この場合はファッションに)詳しい人が、自分一人でいくら考え尽くした解答でも、多彩なコメントが出る。ほめられる、鋭いところを突かれる、まるで想定外のことを言われる。
結果、気づかされたり、ちょっと落ち込んだり反省したりしながら、「もらったアドバイスを踏まえつつ、結局自分はどうするか」を決める作業だ。

多様性のある個性たちの、集合知」の価値はすごく大きいと思う。

◆「高性能探査レーダー」

多彩な、というか、きわめてバラつきのある参加動機、さまざまなバックグラウンドをもつ受講生に対して、政近さんが、コメントを書き込む。授業での即興の題材として取り上げる。

一見、ズバズバ言うし、口も悪い(※そもそも何弁なのかよくわからない!)。しかし実は、きわめて繊細に、ひとり一人の抱えている光や影、強さや弱さを見きわめながら、いちいち拾い、指摘し、フォローする。本人の気づいてない、良いところを見つけてほめる―。
高性能の、距離や地形を測るレーダーのついた、海底探査艇か、月面着陸船、というイメージだ。
だから、言われたほうも受け入れる。提出した宿題への指摘や、その人のキャラクターに対して「持ち味をもっと出せるはず」と示唆されるけども、人格を否定されてないから。素手で触れてほしくない部分、土足で踏み込まれたくないところを、いきなり刺したりしないから、だろう。

ファッションについての深い造詣や、誰も追随できない知見、切れ味ばつぐんの授業や断定は、もちろん他者を圧倒する魅力だけど、それだけでは人はついていかない。
この多様性、受け入れてもらえるという感覚(うけとめる感性)が、リピーター受講生、クライアントが長くついている、源泉なのだろうと思う。
 
その意味では、"政近準子の魅力"は、「ファッションの力量」よりもなお「多様性への受容、実践」にあるのかもしれない。

知識・造詣 ☓ 多様性 で分解してみる


4.「受け手によって受け取るものが決まる」学校(仮説)


MFJは、結局、なにを教える学校なのだろうか。

◆「学ぶ価値が高い」もの

学ぶテーマは人それぞれ選べばいいものだしであっていいし、そもそも勉強するか遊ぶかも、その人の自由だ。

それでも、突き詰めると、

① 希少性が高いものが、学ぶ価値が高い
② 賞味期限が長いものが、学ぶ価値が高い

この二つは、言いきって良いと考えている。
 
学ぶことの価値(値段)は、希少性が高いか、賞味期限か長いかで上がる。両方かけ合わさると、もっと跳ね上がる。

◆「問いをつくれること」がいちばん価値が高い

前述したように、「自分のつくった問題に答えを出せる」ことは、希少性=代わりの効かない能力だ。
そして、「自分で問題を作り続けられる」ようになれたら、それは賞味期限の長い能力だ。

ということは、「自分で問いを立て続けられること」「その問いに自分で答えを出せること」ができれば、「希少性が高く、賞味期限の長い能力(技術)」ということになるだろう。

授業のどこかで、「疑問を持つ習慣を持ちなさい」という意味のことを言っていたと思う。
最終的には「問いかけそのものを、自分でつくりだす→答えは自分で考える」ことを、身につけさせようとしているのかもしれない。というより、あらゆる勉強とは本来、そこを目指していくものなのだろう。

一方で、「問いを自分でつくる」ということは、「得られる答えも自分次第である」とも言える。 
「ファッションを教えてもらう=知識を手に入れる学校」と思って入学したら、「受け手によって、受け取るものが決まる学校」だった、ということなのかもしれない。

ちょっと構成、文章ともにまとまりきらないけど、いったん投稿して、後で編集していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。
 
(つづく)

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