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読書家であればこそ、しばらく本は買わない

 本を手に入れる者は社会のシステム上、消費者と呼ばれるが、本は読んではじめて消費される。至極当然のことではあるが、購入・所有しているだけでは消費とは言えない。
 本は食品と違って数十年単位で保存がきく。なので、食欲が刺激されるようにして思わず買った本であっても、その日中に読む必要性(消費期限)はない。
 そういった特性が、出版物に溢れかえるこの時代特有の現象として「積読」に発展する。
 積読には様々な意見がある。必要になった時に手元にある効能や、背表紙などからその文言に影響を受けることで、普段から書かれている概念などについて意識して過ごすことができる等々。コレクションとしての役割を高めるには、積読も致し方無いと考えてきた。

 ただし、これからの人生も今と同じようなペースで読書ができるという約束手形は無いのであって、もし仮に、読書をすることのできない状況に陥った場合、それらの未読本は、精神的な負担にもなりかねない。
 事実、僕の蔵書は870冊を越えているが、控えめに言ってその半分は未読。実態はそれ以上かもしれない。

 「ブクログ」のラインナップからもお分かりだろうが、BOOKOFFなどでもあまり見かけない絶版本もそれなりにある。
 にもかかわらず、僕は意図せず蔵書が燃えても、仕方ないと割り切れる気がしているのだ。
 独裁国家が樹立して、焚書政策によって僕の本が焼かれたり、あるいはボヤ騒ぎで焼失したりしても、今の僕はそこまで揺らがない気がする。
 それは、持ってはいるが、消費していないことでまだ自分のモノ・糧にはなっていないからだろう。

書物を焼き捨て、儒学者を生き埋めにすること。昔、中国秦の始皇帝が政治批判を禁ずるために、主として儒家に対して行った言論統制政策。転じて、学問・思想を弾圧すること。

焚書ふんしょ坑儒こうじゅ

 読書していない憂いを、購入という手段によって晴らそうとしていた可能性がある。僕がキリスト者をはじめ、様々な宗教の僧侶層に憧れる特に大きな要因は、ある一冊を熟読し続ける姿勢。
 小中学生の僕にとって、その対象はホームズシリーズだった。それ以降、バイブル的な読み方をたった一つの作品に捧げるということは無いように思う。

 アニメや映画鑑賞、更にはカクヨムやnoteでの執筆活動など、それなりに多趣味な僕だからこそ、関心の行き先は広い。
 そのため、各分野の名著を持っていたいという欲求が生じる。これは勉強熱心で良いことなのだが、必ずしも読めていないのは評価できない。
 よって、僕は全ての本を読みきるまで、とは断言しかねるが、今持っている読みたい本(辞書的な目的で買った本以外)をしばらくコツコツ読んでいこうと思う。やがては知識とお金が順調に蓄えられる良い円環構造。

 コレクションや蔵書は、僕への祝福であっても、呪いであってはならない。仏像における後光、明王における火焔光背、千手観音における千手として、本棚をそびえ立たせることを目標に。

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