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場面緘黙症の記録2 小学校1〜4年

保育園(詳しくは前回を参照)を経て、私は学区内の公立小学校に入学した。各学年30人に満たない学校で、同じ保育園から入学したのは3人ほどだった。

クラスの女子とのコミュニケーション

入学してすぐの記憶がほとんど無いのだが、自分からクラスメイトに話しかけられなかったのは覚えている。
それでもこの時は人見知り程度で済んだようで、いつのまにか自然に友達ができていた。私はおとなしい方ではあったものの、友達とは基本的に不自由なく話すことができた。

しかし、自己主張が全くできず、常に周囲に同調していた。いわゆる過剰適応である。

例えば、今でもあるのか知らないが、私が小学生の頃「シール交換」という文化があり、女子小学生にとって重要な娯楽でありコミュニケーションツールでもあった。
イオンの雑貨屋で買った可愛いシールを「シール帳」に貼って持ち歩き、友達と見せ合い「これちょうだい」「いいよ」と交渉成立すれば交換するのである。
元々私は可愛いものや雑貨が好きだったこともあり、保育園の頃のままごととは違い、このシール文化には迎合できていた。
ただし、断るということが全くできなかった。
本当はあげたくないシールでも、断ったら嫌われるのではないかという不安からいつも「いいよ」と言っていた。

他にも、本当は嫌いだった鬼ごっこをしようと言われても嫌だと言えずに我慢して参加したし、他愛ない会話でもいつも友達に共感するフリをして、好きなキャラクターや色などもクラスで人気のあるものを選んだ。

2年生になればクラスの女子の間にいわゆる派閥が発生して、違う派閥の子と仲良くすることが裏切り行為とみなされ始めた時も、隠れて他の派閥の子と遊んだりした。
自分の好きなものも嫌いなものも全て周りの子に合わせて、とにかく目立たないように、嫌われないように生きていた。

そんな性格のせいか、クラスの女子に文房具を盗まれたり、隣の席の男子から毎日暴力のいじめを受けたり、上級生の男子に目をつけられてサッカーボールを投げつけられたりした。それでも何も言えず黙っていたし、先生や親に言うこともできなかった。

そんな自分が嫌いだった。
本当はあげたくないシールは断りたかったし、仲良くしたい子と堂々と仲良くしたかったし、文房具を盗んだ女子のことは発狂しそうなほど憎んでいた。
言いたいことが言えないことが悔しかった。友達と遊んでいても自分らしくいられないから窮屈だった。

それでも、人と違うということの恐怖、そして変わるということの恐怖に打ち勝つことができず、自分を押し殺し続けていた。

男子と喋れない

小3になったある日、思わぬ事実を知ることになる。
今でもその瞬間は脳裏に焼き付いている。放課後にクラスの友達と団地のスロープを下っていると、偶然会ったクラスの男子2人が言った。

「終電って男子と喋らないよな」
「な。なんで喋らないの?」

彼らの言葉を理解するのに時間がかかった。
一切自覚がなかったからだ。自分が誰と喋って誰と喋らないかなんて全く意識していなかった。

でも確かに、言われてみれば小学校に上がって2年以上経っているというのに、男子と喋った記憶はなかった。これを書いている今記憶がないのではなくて、その当時の時点で記憶がなかったのだ。

なぜだろう。そもそも男子と喋る機会がなかったからだ。喋らないも何も、お前ら私に話しかけたことないでしょ。そう思ったが、2年以上も同じ教室で過ごしているのに、話す機会が全くなかったというのは不自然だとも思った。
確かにクラス全体的に男女仲が悪くて男女混合で遊ぶようなことはなかったが、授業や掃除、給食などで話す機会は自然に生じるのではないか。
もしかしたら私は彼らに話しかけられても返答することができないというのを繰り返してきて、なぜかそれらを認識できていない、または記憶を失っているという可能性も考えた。

正解はわからなかったし、今でもわからない。1番現実的なのは、本当に話す機会、厳密に言えば喋る必要がほとんどなかったパターンだ。
クラスで目立たない存在だった私は滅多に男子に話しかけられることなく、話しかけることもなく過ごしていて、もしかしたら少しは喋ったことがあったかもしれないし、相手によっては喋ったのかもしれないが、「男子と喋らない」という認識を複数人に持たれる程度には喋っていなかったのではなかろうか。

少なくとも、クラスの男子と全くあるいはほとんど喋っていなかったのは事実だったのだろう。
私が女子とは喋るのに男子とは喋らないというのは彼らの共通認識だったようだし、この事実を告げられた時も私は一言も発することができなかったのだから。

それ以降、男子と喋れなくなった。
男子と喋らないと認識されていると知ってしまった以上、そのイメージを壊すということがとてつもなく怖かったからだ。

時々、男子に「喋ってみて」「あ、って言ってみて」などと喋ることを要求されても何も言えなかった。
それでも、喋れないことであまり困ることはなかったように思う。
やはり喋る必要がほとんどなかったし、先生や女子と喋ることができれば特に支障はないのだった。

ただ、5年生の時になぜか自然に話せた男子が2人いた。ある時の席替えで同じグループになった男子2人で、グループのもう1人の女子が1番仲の良い子だったことも大きかったかもしれない。
この1ヶ月間だけは、私の小学校生活の中で唯一楽しかったと言い切れる時間だった。

学業面

基本的に成績は優秀だった。授業中もおとなしく座って真面目に授業を聞いていたし、宿題も毎日忘れずにやったし、テストはいつも満点か満点に近かったし、遅刻も忘れ物もしないし、先生の言うこともよく聞いた。体育以外は得意で、読書感想文や絵のコンクールの賞を取ったこともあった。

体育

運動神経の悪さに加え、人前で身体を動かすことが苦手なせいで体育だけは本当に苦手だった。
足はクラスで1番か2番目に遅かったし、何をやってもうまくできず、順位をつけられたり競争させられて常に他の子と比べられることによって、強いコンプレックスを抱くようになった。

さらに、毎回のようにクラスメイトたちに笑われる、リレーで負けたら「お前のせいだ」と責められる、チーム決めでは最後まで余るなどの扱いを受け続け、プレッシャーからますます身体を動かすことに恐怖を感じるようになり、悪循環に陥っていた。

この頃の私にとって、体育が1番の脅威だった。
明日は体育がある、今日は体育がある、1時間後には体育がある……といつも体育に怯えながら過ごしていた。
しかも小学生の世界では運動能力はスクールカーストに大きく反映されるため、おとなしい性格も相俟ってスクールカースト最下層に位置する羽目になったのだった。


以上が小学校1〜4年生までの記録である。

過剰適応、場面緘黙、体育。この3つで私は密かに自分を否定し続けていた。
その結果自己肯定感の低下を招いたことは言うまでもない。

この頃、場面緘黙は軽度だった(厳密にいえば緘黙になる範囲がごく限られていたのでほとんど支障がなかった)が、この後あるきっかけで深刻化することになる。次回に続く。

生活費の足しにさせていただきます