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場面緘黙症の記録1 誕生〜保育園

場面緘黙症の啓発と、自分の記憶を整理するために書いています。登場人物は全て仮名、自分の名前は「終女(しゅうじょ)」。
場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)、選択性緘黙(せんたくせいかんもく、英: Selective Mutism,SM)とは、家庭などでは話すことが出来るのに、社会不安(社会的状況における不安)のために、ある特定の場面・状況では話すことができなくなる疾患である。 幼児期に発症するケースが多い。
場面緘黙症-Wikipedia

誕生 物心付く頃には発症

とにかく変化を怖れる子供だった。
たとえば幼少期、着替えの時にパンツ(下着)が裏返しになっている場合、必ず母親に直してもらってから自分で履くという習慣があった。この頃はベランダで干して取り込んだ洗濯物を畳まずにそのまま着ることが多く、パンツが裏返しになっていることも多かったのだが、それを自力ではうまく直せなかったのだ。
そんな習慣が続いていた3歳か4歳のある日の朝、母が用事で出かけて1人で留守番することになった。
母が家を出た直後に着替えを始め、パンツを脱いで乾かしたばかりの洗濯物の山から新しいパンツを手に取った私は、おそろしい事実に気が付いた。パンツが裏返しになっている。
幼少期は夜の入浴の際だけでなく朝もパンツまで着替えるように指導されていたため、絶対にパンツは替えなくてはならない。そして新しいパンツが裏返しになっていれば、絶対にお母さんに直してもらわなければならない。

急いでベランダに出て団地の駐車場を見下ろすと、ちょうど車に乗り込んだ母がドアをバタンと閉めたところだった。
私はベランダの柵の間からパンツを持った手を伸ばし、声の限り叫んだ。

「おがーさーーーーん!!! パンツうらがえしーーーー!!! ゔあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

藤原竜也顔負けの絶叫だったと思う。
母は全く気付くことなく、エンジンを付けて車を出す。

「おがーさーーーーん!!! ゔあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

号泣しながら叫び続けたが、母の車はあっという間に駐車場を出ていってしまった。

泣きながら部屋に戻り、おそるおそる裏返しのパンツを直し、履いた。あっけないほど簡単に直せてしまい、何か悪いことをしているかのような後ろめたさを感じた。
私は自分で裏返しのパンツを直せることくらい薄々わかっていたのだ。泣き叫んでいる最中もずっと「多分もう自分で直せる」という発想を必死で頭の片隅に追いやっていた。むしろその事実を直視しないために必死で泣き叫んでいた気さえする。
とにかく怖かったのだ。裏返しのパンツを自分で直すことが。「お母さん、パンツ裏返し」と言って直してもらってから履く習慣を変えることが。いつのまにか裏返しのパンツを自分で直せるようになったと母に認識されることが。
なんとなく惰性で直してもらっていたに過ぎなかった。自分で直すことにチャレンジすることもなく、母も何も言わず直し続けていた。その日常を崩すのが怖かった。

だが一度崩してしまえば何も怖くなくなり、その後は当たり前のように自分で直して履くようになった。

自分がある特定の場面で話せなくなることを自覚したのもこの頃だった。家族や親戚、両親の友人などとはごく普通に年相応の会話ができたが、近所の子たちとは全く話せなかった。
私の持っていたおもちゃを他の子に取られても「返して」の一言が言えず悔しい思いをしたような記憶がある。そのせいで近所の子たちと遊ぶのは全く楽しくなかったし気が進まなかったが、そのことも言えなかった。

保育園年中 不登園になる

年中から入ることになった保育園の入園式の日、母が私の髪をリボンの付いたヘアゴムで2つ結びにしてくれたことと、保育園にいる間ずっと大泣きしていたことを覚えている。知らない人がたくさんいる空間がとにかく怖かったのだ。
顔を真っ赤にして泣きじゃくっている記念写真が、今でも実家にある。

翌日以降の登園も、同じように保育園についた途端に大泣きし、帰るまでずっと泣いていた。
知らない場所で知らない人に囲まれることと、今までずっと一緒にいた母と離れるのがとにかく不安だった。この頃の記憶はあまりないのだが、泣いてばかりで保育園の子たちと喋るどころではなかったように思う。
毎日母に無理やり保育園に連れて行かれて泣きじゃくるのを数週間繰り返した結果、ついに母が諦めて私は不登園になった。

保育園に行くのが嫌で泣いていたある夜、母が何も言わずおにぎりを作って私を近くの公園に連れて行ったことがあった。
なぜこんな時間にわざわざ公園に行くのかわからなかったものの、ベンチでおにぎりを食べながら、私は目の前の団地を眺めた。11階建ての巨大なコンクリートの壁に並ぶ小さな部屋の窓から漏れる蛍光灯の白い光が消えたり点いたりするのを目で追っていた。
保育園のことは特に何も話さず、風呂場の電気が点いている部屋を指差して「あの部屋の人はお風呂に入ってるね」、電気が消えた部屋を指差して「あの部屋の人はもう寝るのかな」などと言い合うのを繰り返した。
それだけだった。それだけのことが妙に心地良く、なんとなく少し気が楽になった。それで保育園に通えるようになったわけではないが、つらいことしかなかったこの頃、あの時間だけは好きだった。

保育園年長 毎日登園できるように

その翌年の3月まで、家で絵本を読んだりひらがなの勉強をしたり絵を描いたりして過ごし、4月に再び保育園に連れて行かれた。この日はなぜかそれほど嫌でもなく、教室に入っても年中の頃より恐怖を感じず泣くこともなかった。自分でも不思議だと思った。
この日から毎日登園することができたものの、保育園では嫌なことや不安なことだらけだった。

まず、給食の時間が嫌いだった。苦手だったしいたけとたまねぎが毎日のように出るからだ。
たまねぎがたくさん入ったメニューだったある日、私はうっかりたまねぎを落としたフリをして減らすというアイデアを思いつき実行した。しかし思ったよりたまねぎが多く、気が付くと私の机の周りの床はたまねぎで囲まれていた。それを見た先生は「こんなにいっぱい落とすわけないでしょ!」と叱ったが、私は何も言えなかった。

自由時間も嫌いだった。毎日その時間になると一斉に外に飛び出して遊具や砂場へ走って行くみんなを横目に「何がそんなに楽しいんだろう」と思いながら、まず時間を潰すために極力ゆっくり歩き、砂遊び用のプラスチックの小さな入れ物に土を詰めてひたすら表面を平らにするか、ピカピカの泥だんごを作るか、雲梯の端から端まで行ったり来たりするのを繰り返していた。

人前で身体を動かすことに強い羞恥心を感じ、ドッジボールや運動会のダンスなどではほとんど身体を動かすことができなかった。

一時期保育園で流行った、砂遊び用の網で葉っぱを削って「青のり」を作る遊びだけはものすごくやってみたいと思ったが、「入れて」の一言が言えず、一度も参加することはなかった。

室内で遊ぶ時間には、いつも1人か先生と2人でパズルかお絵描きをしていた。
女の子たちの間で人気があったままごとにもあまり興味を持てなかったのと、何かになりきって喋ることに苦手意識を感じて避けていた。

1年間、他の子たちと話すことはほとんどなかったように記憶している。
誤って誰かの色鉛筆セットを落としてしまい「ごめんね」と言おうとしても声が出ず立ち尽くして泣くなど、言うべきことをなぜか言えず辛い思いをすることも時々あったものの、基本的に1人で行動していたため他の子と話す機会があまりなく、誰かと遊びたいとか喋りたいと思うこともなかったので特に気にしていなかった。
しかし、計算の練習の時間には突然饒舌になって自分が一足先に足し算を習得していることを自慢するなど、自然に話せることも稀にあった。

また、なぜか先生となら常に問題なく話すことができた。その証拠となる、先生からのメッセージには「よく笑ってよくしゃべる子になったね。これからも明るい終女ちゃんでいてね」と書かれているのに年長組にアンケートを取った「おとなしい子」ランキングでは堂々の1位に輝いた卒園文集が、今でも実家にあるはずだ。

そんな「おとなしい子」にもかかわらず、一部の園児には一方的に強い好意を持っていた私は、机の下に潜り込んで気に入っていた男の子数人の脚に勝手にキスをしたり、昼寝の時間に気に入っていた女の子数人の髪を昼寝の時間にこっそり触ったりといった奇行を繰り返していた。自分でもなぜそんなことをするのかわからなかった。

ほとんど喋らない上にそんな奇行をしていたくせに、みんなに好かれていない自覚を持ったのは、卒園間近になってからだった。
年長組の誰かの誕生日が来るたびにみんなで祝うという恒例行事の中に、誕生日の子に聞きたいことを聞くというコーナーがあった。それには「好きな子は誰ですか?」という毎回お決まりの質問があり、みんな仲の良い友達を数人挙げていた。私は自分の誕生日には先述の奇行のターゲットとなっていたお気に入りの子たちの名前を挙げ、他の子の誕生日には、いつ自分の名前が挙がるかとドキドキしながら待っていた。しかし、1年間私の名前が挙がることは一度もなかった。私が一方的に好いていた子たちも、私のことなど頭の片隅にもなかったことに、密かにショックを受けたのだった。

そんな感じで無事に卒園した。
年長の1年間は総合的にはそれほど苦痛ではなかったが、保育園で撮られた写真の私はどれも赤面していて表情が硬く、自覚がなかっただけで常に緊張状態だったと思われる。

卒園式での私は奇妙だった。式の始めから終わりまで、別に楽しくもなかった1年間に対してなぜか感極まって涙ぐんでいた。3人1組になって先生にお礼の言葉を送った時は、普段は何とも思っていなかったはずの先生への感謝の気持ちが急に溢れてきて、それを伝えるために他の2人より大きな声を出していた。あの感情が何だったのか、未だにわからない。


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