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「読書感想文」暇と退屈の倫理学 國分功一郎

國分先生、まさか哲学書で涙するとはおもいませんでした…―――若林正恭(芸人)

人はパンがなければ生きていけない。
しかし、パンだけで生きるべきでもない。
私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。                                                 

本文より

    私の姪っ子は、大学生になり、バイトと学校と自動車学校とに通いながら、実家暮らしをしている。実家は田舎で、車の免許を取るまでは、1時間に1本あるかないかのバスか、母親の送迎に頼らねばならず、カフェで時間を潰したり、自動車学校の授業を詰め込んだりして過ごしている。
休日という休日はなく、授業のない日はバイトを入れ、空き時間があれば1人でもカラオケへ行く。
「学生なんだから、休みなら昼まで寝たりすればいいのに。」
と私が言うと、
「そんなのもったいない。」
と返ってくる。

   「暇と退屈の倫理学」を読み進めていくうち、どうしてもその姪っ子のことが頭に浮かんできていた。

あの子は、「退屈」なのだろうか、と。

もしくは、「退屈から逃れようと必死」なのだろうか、と。

  姪っ子の父親である義兄も、似たような暮らしをしている。大きなバンを買い(車中泊が出来るよう設えてある)、一流のキャンプ用品、釣り道具を揃え、休みの日にはソロキャンプと釣りへ出掛ける。早朝から、もしくは前日の夜から。

「休みの日くらい家でゆっくりしたらいいのに」と言うと、
「もったいない。」とのこと。

よく似た親子だ。

本書を読み進めていく中で、

レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作りだす。

本書P147

ソロキャンプ、釣り、カラオケ。楽しい休日の過ごし方、趣味なのだけれど、彼らの消費はとまらない。次から次へ流行りの趣味が提案され、新商品や新モデルが生産され、販売される。新しいキャンプギアが出れば欲しくなり、カラオケの時間が長くとれれば喉が枯れるまで歌う。そうしておいて、ぐったりとして帰ってくる。

彼らは「退屈」が耐えられない、のだ。

私にも心当たりがある。消費生活を担う私たちは、誰しもがそうだろう。こと、コロナ禍においては、「おうち時間」を強いられ、「退屈」と否応なく向き合う人が溢れていたのだと思う。

ゲーム上に村をつくり、オンラインで行き来したり、ベランダでキャンプをしたり、食べきれないスイーツを作ったりしてやり過ごしていた。

   普段、哲学書にはよっぽど手が伸びないのだけれど、この「暇と退屈の倫理学」を手に取ったのはきっと、そういう時代を経験したからこそ、実感を持って読めるのかもしれないと思ったからだ。

「暇と退屈ってちがうの?」と純粋な疑問も手伝って。

途中、何人もの哲学者たちの分析(国語力が問われるような微妙な言い回しの違いであったり)が出てきて、怯みそうになったけれど。
國分先生は、そのあとわかりやすい言葉で噛み砕いてくれた。ようやく最後の結論まで読みついたころには、「退屈」というものが違ってみえてきた。

結構 序盤に、「暇と退屈の違い」は意外とあっさりと区別されていた。

多かれ少なかれ、私たちは「退屈」の中にいる、共にある。けれど、恐れることはないのだと、勇気をもらった気がする。

ソロキャンプへ行っても、カラオケへ行っても、いいのだ。彼らが、そこに楽しみを見出し、そこからより理解を得ていくのを楽しみにしていようと思う。

私も、そうだな、絵を描きすすめよう。私は「人間である」のだから。

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