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最近はずっと自分を削っていく感覚がある

身を削っているのか堕落してるのか

気づけば大学院受験が終わり,大学の卒業式も終わり,入学からはすでに半年が経過していた。

流石にぼんやりとはしていられないとは思いつつも,意外とぼんやりと過ごしてしまっている気はする。だが,睡眠時間は到底足りていないし,日々の習慣なんてものは遥か昔に破綻してしまっている。
そんな些事に気にかけるほどの余裕もないほどに,毎日身を粉にして一意専心何かに取り組んでいる!と言えればいいものの,正直そんなことは一切ない。

毎日,ぼんやりと目を覚まし,何かを食べるとぼうっと学校へ向かい,何か色々と取り組めば,気づけば夕方になっており,家に帰ると何をするまでもなく眠りに落ちる。これはいけないと目を覚ましても,食事とシャワーが精一杯で,そのあとはまたぼんやりとスマホを触るなりなんなりする。すると,不思議なことに一日が終わっているのだ。

気楽でいいご身分だなと言われれば,正直否定するのは心苦しいところはある。だが,気楽と言われれば強く否定せざるを得ない。
堕落は疲労の裏返しであり,何をするにも余裕がない。だからこそ,何もできていない。おそらく何もしていない時のほうが,もっと色々と何かをしていたのが実情だ。

堕落をしていると言われればその一言で終わってしまう。
正直一部もしくは多くの人にとっては,この文章全てが大袈裟な言い訳に聞こえてしまうかもしれない。
しかし,この堕落というものは,ある意味で日々の疲労によって「生理的欲求」や「安全の欲求」が満たされないが故に,自己実現なんてものを考えることすらできないある種の危機的サインであると思う。

そのため,今回はこの長い言い訳にぜひとも付き合ってもらいたい。

アイデンティティに悩んではいないけど

大学院に進学して,ぼんやりと忙しい日々のタスクをこなしていく毎日を送っていくと,ふとしなくても感じてしまうことがある。

「私は,いったい今何をしているんだろうか」

自分との約束であった習慣は破綻し,課題や事務仕事などに追われる日々。
周囲との目立った軋轢はないが,そこまで馴染めている訳でもない。
かといって,中途半端に余裕があることからフルスロットルで振り切ることもできない。
そんな,張り合いのない人間関係と日々を過ごしていると,自分自身への疑問が湧いてくることがある。

別にアイデンティティに悩んでいる訳ではない。自分は自分であって,色々なものを感じることもあるのが私という人間だ。
鋼のような一貫性を持った存在では全くない。その時々に感じたことやひらめいたことで遊び,分解しては組み立ててまとめあげるようなことを楽しむ人間だ。

だからこそ,自分は一体何者なのか,と言ったことに悩み続けることはあまりなかった。私は私であり,そんなことに悩んでいても,悩んでいなくても,結局はライブ感を重視するのが私だ。

自分を削っていく感覚

だが,ここ最近はそういった自分自身の「好ましいと思う部分」との葛藤に悩むことが存外に多い。

平均的にならされるような空気感に押しつぶされそうになりながら,自分にあったものの考え方を日々しているつもりではある。
だが,特定のフレームにはまってしまい,蟻地獄のようになっていることが少なくないのだ。

なんだかんだで,自分は悩んでいる時間を案外に楽しんでいる人間であった。だが,そういった悩みの存在を気取られれば,それを解消するようにといった圧を周囲からかけられる。
それが続くと,悩みを解決できないという状態に対して不思議とイライラしてくるようになる。

おそらく,私は自分自身の好ましいところや,誰かに共感はされなくても満足しているところに踏み込まれることがかなり苦手なのだろう。

そのため,私にとっての見逃せない苦痛には,この自分にとってだけの,自分の為だけに洒落た「私のためのよそ行きの私」を侵害されることや,失うことが含まれているのだと思う。

何をしたいのか,どうしたいのか

ではいったい,私は何を削っているのだろうか。何をできていないのだろうか。

それはきっと,自分の着たい服を着ることや,自分の考えたいことを考えること,自分の悩みたいことに悩むことや,使いたい道具を使いたいように使うことなど,様々なものがあるのだと思う。

これは一見すると,自分勝手なものばかりであったり,余計なものや不必要なものばかりであるかもしれない。

だが,私は大自然の中で生きる孤高の生物という訳でも,広い海原をとどまることなく泳ぎ続ける回遊魚でもない。

定住する遊牧民のような偏屈な考え方を持っていたとしても,私はやはり人間である。そして,人間というのは得てして余計なものを多く身につけようとする存在なのだと思う。

そのため,余計なことをし,時には贅沢をし,時には気まぐれに清貧に生きてみる。そういった,余暇活動を行うことこそが必要なのだとは思う。

だが,時間や体力,余裕といったものは有限である。そのため,余暇活動を実際にできるかどうかはわからない。

だが,この言い訳ややりたい事が本当に目の前から消え去った時,頭の片隅から見つけ出すことができなくなった時こそが,私という人間が本当に限界を迎えて追い詰められた時なのだろう。

だからこそ,この長い言い訳がある種のセーブ地点になればと思う。

皆さんの応援に私はいつも支えられています.本当にありがとうございます.