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daily and diary

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にちじょうの、にっきです。
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#雑記

僕だけが見た特別なワンシーン

何故だか分からないが、ニヤニヤとしながら交差点を右折するトラックの運転手のおじさんがいた。 禿げた頭、残った髪は白髪のおじさんは、建築中である家の外壁をペンキで塗っている。 今から防空壕に避難でもしに行くんですかと尋ねたくなるような格好をしたおばさんが道路を横断しようとしたものの、向かってくる僕が乗る車に気づいて、やめた。 微妙な位置を走るヤクルトレディの原付バイクが煩わしい。 カブに乗った郵便配達員の男性と工事中の道を整備するおじさんが信号待ちの間に短く会話をしてい

箱の中身はなんだろな

とあるショッピングモールのトイレへ向かった。 そこはまあまあ広い空間で、手洗い場と用足し場(便宜上そう表記する)の間に花壇が設置されているような、華やかなトイレだった。 そこで僕は用を足し、手洗い場に向かおうとしていると、小学生くらいだろうか、まだあどけない表情をした五人くらいの子どもたちがいつの間にかそこに居た。 彼らはその幼い表情とは裏腹に、白や黒、グレーといったモノトーンの色が配色された学校制服のようなものを着ていた。今思えばおかしいのだけれど、彼らの中には女子生徒もい

クソにわかファッションヒップホッパー(笑)

30歳を超えてからというもの、服装にどんどん無頓着になっていっているのを実感している。 クソダサファッションや、利便性だけを重視したよくあるおじさんのジャージスタイルではないと思ってはいるけど、まぁ、それもどうかな。 なるべく清潔感のある、自分の身の丈に合った服を着るようにしている。とはいえ、Tシャツ一枚に3000円とかそういう買い物は絶対にしないし出来ないから(好きなバンドのTシャツなら3000円出せる不思議)、ユニクロやGU、しまむらアベイルという、所謂プチプラの服飾店は

いつかは必ず死んでしまうんだな。

中学三年とかそのへんの頃、森田一義…つまりタモリさんが大好きであった(今でも好きだけど)。 ふざけるときはとことん…ほんとに"とことん"ふざけられ、でも時にはアカデミックな話題にも対応出来る。そして電車をはじめ、多趣味であり博学。まるでタモリさんという人間の中に図書館がまるごと入ってるような、そんな圧倒的なものを感じたのだ。 今はなき「笑っていいとも」を、風邪をひいて学校を休んだ日のお昼にまどろみながら観るのが至高の時間であったし、家族が寝静まったくらいの時間に、ひっそり自室

きっとどうでもいいし、だからなんだという話。

きっとどうでもいいし、だからなんだという話なのだけど。 今朝、洗面所で歯磨きをし、顔を洗っている時にふと考えたことがある。 それは、「野比のび太の家の間取りが分かる」ということだった。 藤子F不二雄原作の漫画及びアニメ作品「ドラえもん」の主人公である野比のび太の生家のことだ。 まず玄関がある。 玄関は広くもなく狭くもない、一般家庭のそれらしい空間である。のび太はよくその玄関に靴を投げ出して帰宅する。怒らせたらネチネチとガミガミを交互に使い分けて長時間説教する母親が居るにも

いずれおそらく心が死ぬ。

いわゆる"中華イヤホン"というのを、リケーブル(ケーブルを交換すること)して使用している。付属のケーブルは細くてへなへなしてなんだか頼りないし、何よりリケーブルすることによって音質がよくなる、と膨大な量のレビューテキストを読んだからだ(蔓延るサクラレビューを読み飛ばすことが難しいけど)。 届くとすぐ、聴き比べてみた。 …が、大きな差は感じられなかった。え、こんな感じ…?と思いつつ、せっかく買ったのだからとリケーブルしたものを愛用している。こっちのほうが音が良いのだと言い聞かせ

困った。

Amazonプライムで観たいものが溜まっている。 「ドキュメンタル」の新作を最後まで観なくてはならないし、「有田と週刊プロレスと」のシーズン3も途中で止まったままだ。 ウォッチリストにはその他映画やドラマ、アニメなんかも溜まっている。年末年始に少しでも消化したかったが、いざ時間があるとなるとついつい他のことが気になってしまう。 困った。 読みたい本が溜まっている。 昨年は父のことがあって、少しでも気を紛らわそうとふとした拍子に手をつけた読書をそのまま続けていたら、なんと年間

まだはじまったばかり。(AKG/「ホームタウン」によせて)

アジカン先生の新作と、ホルモンの新作と、星野源の新作をずっとリピートして聴いている毎日である。 今回はまずアジカン先生。 前作(といっても3年半も前だけど)の「Wonder Future」がそこまでハマれなくて、うーん、なんだかなぁと思っていたところ、届いたのがこの「ホームタウン」というアルバム。 これがもう素晴らしくて。久しぶりにアジカン先生のアルバムをリピートして聴く、という幸せに浸ってる。 一曲目の「クロックワーク」が「暗号のカイト」や「十二進法の夕景」なんかを彷彿と

日々を捲って来た。

去年の年始はどうしていただろうとぼんやり考えていた。 年越しは、家族で過ごした。もちろん父も居て(今思えば一緒に年越し出来たことはほんとに良かったな)、父はAbemaTVで放送されていた朝青龍が色んな格闘家らと相撲をとるという番組を自分のiPhoneで観ながら、ちびちびとお酒を飲んでいた気がする。 そうして迎えた2018年の1月、2月は怒涛の日々だった。 父が居なくなるかもしれないということが頭を何度も何度も過ぎっていたけれど、想像すると現実になりそうで怖くて、何もかも

さよなら、僕のミニディスク。

昔はなんにでも、好奇心が赴くままに色々なコンテンツを貪っていたように思う。ネット界隈に蔓延るくだらない情報やステマにさえ。 一番思うのはやはり音楽で、高校生の頃なんてのは、気になったバンドがあれば学校の帰り道にあるTSUTAYAに制服のまま立ち寄り、なけなしのお小遣いから(お小遣いなんてのはほぼほぼ無かったけどw)捻出し、5枚パックレンタルを酷使し、帰宅するとすぐにMDに取り込む作業に勤しんでいた。 それから時代はすぐにハードディスクの時代になったから、MDなんてのをガンガン

新手の拷問。

引越しをした。 話せば長くなるけど、両親が30年前に建てた、僕にとっての実家を引き払う事にしたのだ。 この引越しにまつわるエトセトラは先に書いた通り話せば長くなるし、話しても特に面白くは無いので割愛する。端的に言えば、『色々な事が重なった』という事である。 話をしたいのは引越しの事ではなくて、その引越しに伴う弊害についてだ。 よくこのnoteに「ネットもいいけど本当に大切なのは今この目に映ってる現実の世界やで…そこんとこわかっときや…」的なことを拙いながらも書いているけど

話したいことのほうが多くなるかな。

父の父、つまり僕からしたら父方の祖父であるが、その祖父が亡くなり、いよいよ火葬する、という時。いわゆる、最後のお別れと言えるのだろうか。その瞬間に、父が顔をくしゃくしゃにして涙を流した。それはほんの一瞬のことで、火葬を待つだけの、あの独特にくたびれた部屋に戻った父は、いつも通りの顔をしていた。 思えば、父が祖父と別れの際に流したあの涙を見たのは、もしかしたら僕だけなのかもしれない。 父はその夜、アコースティックギターを手に取り「親父が死んだ後は手続きやらなにやらがとてもめ

ジイよ、ありがとう(下書き消費②)

スーパーでお惣菜を物色していると「これは美味しそうね!!」というジイさんの声が聞こえてきた。なんじゃらほいと声がした方に目を向けると、たった今出来上がったであろう弁当を店員さんが陳列しに惣菜コーナーに来ていて、その弁当を見たジイが思わず放った一言らしいということが分かった。 ありがとうございます、とにこやかに対応する店員にジイは続けざま、「いくらね?!(おいくらですか?の意)」と声をかけている。声がデカい。別にいいけど。 すると、やや間があって「なんね!これ値札が付いとらんた

敬語マン。(下書き消費①)

気温がすっかり下がった。朝とか寒いくらい。 季節の変わり目に降る雨は、次の季節を連れてくるんだなぁと思いながらTシャツと短パンで過ごしてたりする。まだ…まだ安心出来ない。それくらい暑さに敏感で、汗をかくのが嫌なのだ。 夏の最中からひとつ動き出していた事柄があって、それにやっと取り掛かることにした。宅録である。 この宅録(レコーディング)というのが、自分にとっては生活している上で一番頭を使う作業だと思っている。その時の脳の様子をそれ専用の機器で見たらめっちゃ光ってそう。右脳辺