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「さよなら」。

「…ふぅ」
その日の全ての授業が終わり、理(おさむ)が帰り支度を始めていた。

「宗悟、なんか楽しそうだな」
クラスメイトの菜田仁(さいたじん)が加賀宗悟(かがそうご)という男子生徒に声をかけていた。宗悟は「おう、やっと今日から始まるんだよ」とワクワクした様子で答えていた。
「お、部活?」
「おう、すっげー楽しみなんだ」
そう言いつつ、机の上にまとめた空手の道着に手を触れた。

その会話を、理が何気なく聞いていた。

「じゃあ、行くわ!」
そう言って、宗悟が荷物を肩に担ぐ。
「がんばれよ」
仁にそう言われ、「おう、ありがとう!」と教室を出て行った。理がその背中を見送る。

「…俺も行くか」
理がリュックを背負い、教室を出た。

 理が独りで廊下を歩く。その足取りは重たかった。すれ違った三人の女の子たちが、これからどこに遊びに行こうかと楽し気に話している。彼女たち以外の生徒も、授業が終わった解放感や部活動へのワクワク感に包まれていた。その雰囲気に、理は馴染めなかった。

 理が階段を降りる。階段には他には誰もいなかった。楽し気な空気から抜け出した理が「ふぅ」と息を吐く。
 理は、入学してすぐにアルバイトを始め、毎日のように働いていた。休みなく働いた体はクタクタだった。しかし、今日も働きに行かなければならない。
「…はぁ」
もう一つ、溜息を漏らす。階段を下っているのに、上っているように足が重たかった。下を向いて足元を見つつ、一段一段数えながら階段を降りる。

「さよなら」

不意に。階段下から声をかけられ、挨拶を返そうとそっちを見る。
「あ、さよ…」
理が言葉を失う。今まで見たことのない素敵でキレイな女性がそこにいた。理はその女性に見とれ、体が固まって動けなくなった。その女性は、理の中途半端な挨拶に小さく微笑むと、理の横を過ぎ去っていった。その後ろ姿を目で追う。背が高く、スラッとしたしなやかな体で、長く美しい黒髪を揺らし、颯爽と階段を上って行った。

「…あ、行かないと」

ハッと気が付き、階段を降りる。さっきまでと違い、足取りは軽かった。

 ビル清掃のアルバイト。作業中、つい、あの女性の事を考えて、ぼーっとしてしまう。

 生徒であるはずはない。先生だと考えるのが普通だが、あんな人は見たことがないし、先生にしては華やかで美人すぎる。遊びに来た卒業生かとも考えるが、それにしては大人びている気がした。

「誰なんだ…」

その時、頭をはたかれた。後ろを振り返る。
「手ぇ動かせよ」
社員の男から叱られた。「すいません」と頭を下げ、作業を再開した。

「さよなら」

すれ違う時の、小さな笑顔。その顔が、理の頭から離れる事はなかった。

 バイトが終わり、家のアパートの階段を上がる。
「ようやく休める」
くたくたになった体で、リュックから鍵を取り出し、鍵穴に向ける。

「いい加減にしろよ!」

中から、父親の怒鳴り声が聞こえる。理の手が止まっった。続いて、それに言い返す母親の怒鳴り声も聞こえてきた。

「ここ最近、ずっとだな…」

理が中学を卒業する頃、父親が仕事中に事故に合いケガを負った。それから父親は休職になり、失業時の保険と理のバイト代で生活を支えている。
 そして、その頃から夫婦喧嘩が絶えず、家の雰囲気が悪い。働けないのはしょうがないが、せめて仲良くしてくれと思う。

「はぁ」

階段の最上段に腰をおろす。家の中の嵐が過ぎ去るのを待とうと思った。

「さよなら」

見下ろす階段に、あの女性の姿が思い浮かぶ。

ガチャン!

中から、何かが壊れる音が聞こえてきた。「長引きそうだな」と思い、溜息を吐いた。

 次の日。理が登校する。校舎の玄関で靴を履き替え、階段を上がる。

「さよなら」

ここで、そう声をかけてくれた。颯爽と階段を上がり、優しく揺れる黒い髪が目に浮かぶ。

ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。始業までは、まだ少し時間があった。
 教室に向かおうとした足の方向を変え、学校内をフラフラと歩いてみた。もしかしたら、バッタリ遭遇できるかもしれない。
「…いないな」
しかし、そう都合よく会えるわけもなかった。「まぁ、そりゃそうか」とつぶやく。

「…どこだ、ここ?」

ふと気が付いて辺りを見回す。入学したばかりの校舎で、今自分がどこにいるか分からなかった。「まさか、学校で迷子になるとはな」と思い、小さく笑った。

「何してんの?」

そのとき、声をかけられた。現れたのは、同じクラスの背が高く端正な顔立ちの菜田仁という男だ。身長の低い理は、同い年のジンを見上げる形になる。
「…道に迷った?」
ジンがそう言う。「よくわかったな」と思い、「…まぁ」と笑って答えた。
「教室こっちだよ」
ジンが先を歩き、理が後に続いた。
「…ていうか、こんなところで何してたの?」
ジンが聞く。まさか「キレイなおねえさんを探してた」と言うわけにもいかず、「お前こそ、何やってたんだよ?」と聞き返す。
「誰にも言うなよ?」
「ん?」
「女の子探してたんだよ」
端正な顔で爽やかに笑った。その返事に、「何してんだよ」と笑ったが、さらっとそう言えるジンを「かっこいいな」と思っていた。
「合格発表の時に偶然見かけたんだ。背が小さくて、丸顔で可愛い子。見たことない?」
「いや、その情報じゃなんとも」理が笑う。
「そうだよな」とジンも笑った。
「うろうろしてたら、バッタリ会えないかなーと思ってさ」
「そっか。会えたらいいな」
理がそう返した。ジンは「ありがとう」と爽やかに笑っていた。
「お前、いいやつだな」
「お前はかっこいいな」
理がそう返す。ジンは「えぇ?」と笑っていた。


 「理」
昼休み。購買で買ったパンをかじる理にジンが声をかけた。
「なんか、担任が呼んでたよ」
「俺?」
「お前、なんかやったの?」
「やってねぇよ」と笑いながら教室を出る。

 「失礼します」
理が職員室に入る。担任の男性教師が「おう」と手を挙げ、そこに理が近づく。
「悪いな、昼休みに」
「いえ」と首を振る。担任の飲んでいるインスタントコーヒーの安っぽい匂いが理の鼻をつく。
「お前、大丈夫か?」
「え?」
「家、大変なんだろう」
「あぁ、まぁ…」
「でな、」
「はい」
「できるなら、一度、親御さんと話が出来ればと思ってるんだが、どうだ?」
「あぁ…」
理は、返事が出来なかった。両親の話は、頭が痛い。
「まぁ、ちょっと話してみてくれ。お父さんでもお母さんでもいいから」
「…わかりました」
「失礼します」と頭を下げ、職員室を出ようとする。
「…あ、」
あの女性が先生であれば職員室にいるはずだと思い、室内を見回してみる。
「…いないな」
しかし、その姿を見つけることはできなかった。
「…どうした?」
担任が見上げる。しかし、あの女性の名前も知らない。まさか「キレイなおねえさんいませんか?」と聞くわけにもいかない。
「いえ、なんでもありません」
そう言い、職員室を後にした。

 「…事務の人か?」
そう思い、職員室の隣の事務室を外から覗き見る。ほとんどが年配の男性と女性だ。若い女性もいたが、なんというか、地味で雰囲気が薄い。あの、存在するだけで空気がガラッと変わるような、思わず吸い込まれてしまうような魅力のある女性ではない。
「ちがうか…」
理が教室へと足を向けた。

 「…はぁ」
授業が終わった。その日一日、あの人を見つけられないかと心がけてみたが、その姿を見ることは出来なかった。放課後も少し校舎をうろついたが見つけられず、バイトの時間が迫っているので帰ることにした。溜息を吐きつつ、校舎の玄関に向かう。
「…はぁ」
そこに、同じクラスの加賀宗悟がいた。理と同じように、溜息を吐いて突っ立っていた。「何してんの?」と声をかける。
「あのさ、女の子見なかった?」
宗悟がそう言う。「なんなんだ、どいつもこいつも」と思いつつ、「人の事言えねぇか」と思い、小さく笑った。
「女の子?」
「ちょっとキツ目だけど、綺麗な顔立ちの女の子、見なかった?」
「その情報だけじゃ、なんとも」
「そうだよな」
そう返事をすると、また「はぁ」と溜息を吐いた。
「…学校の中探してみれば?会えるかもよ?」
理がそう言いながら、上履きを取り出す。宗悟が「…そっか」と頷く。
「そうだよな、自分から会いに行けばいいんだよな!」
宗悟が笑顔になる。その変わりように、「お、おう」と戸惑いつつ頷く。
「お前、いいやつだな!」
宗悟は、そう言うと走り出して行った。その背中を見送る。

「ふぅ」

自分も、もっと時間があればな思い、自分の目標に向かってすぐに動ける宗悟が羨ましくなった。

「さよなら」

ただの、挨拶の一言。しかし、耳からあの声が消えることはなかった。


 あれから一週間ほど経った。だが、あの女性を見かける事は一度もなかった。理は、あの人は学校の関係者ではないと結論づけていた。すると、もう会えることはないのだろうと、ガッカリした。

 ある日、健康診断があった。理のクラスが診断を終え、保健室から教室へ帰っていた。みんなが診断結果を見ながら話している。少し前を歩くジンと宗悟も、身長を比べあっていた。
「ジン、いくつよ?」
「俺、百八十二」
「でけぇな」
宗悟がそう言う。宗悟はジンよりも十センチほど背が低い。
「理は?」
ジンが振り返って聞く。
「俺は二メートル五十の気持ちで生きてるよ」
理がそう返す。「気持ち聞いてねぇよ」と笑う。宗悟が理の診断結果を覗き見た。
「めちゃめちゃ低いじゃねーか!」
理の身長は百六十三センチと記載されていた。
「うっせー!お前なんて高くもなく低くもない中途半端な身長なくせに!」
「こういうのは、中途半端じゃなくて『平均』って言うんだよ!」
宗悟がそう言い返すと、三人で笑った。笑っている理の視界の端。黒くて長い髪の毛が揺れるのが見えた。
「…え?」
視界の端を追いかける。そこにあの女性の姿はなかった。しかし、あの黒く美しい髪の毛は、目に焼き付いていた。目の端に見えた影を追いかけようと、理が走り出そうとした。
「おい、理」
その理の肩を、ジンが掴んで止めた。
「ん?」
「どこ行くんだよ、教室こっちだぞ」
「いや…」
「つぎ移動だから、急がないと遅れるぞ」
「…あぁ、そっか」
ジンに返事を返し、歩き出す。
「…気のせいか」
あの人は職員室にいなかったし、いくら探しても見つからなかった。自分は、ついに幻覚が見えるようになってしまったかと小さく笑った。


 次の日。

「しょっぱなの授業で柔道ってよ」

学校が始まって最初の体育の授業が終わった、教室への帰り道。柔道着姿の宗悟がボヤいた。「あの先生、柔道の選手だったらしいよ」と仁が言う。
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「なんでもわかるんだよ、俺は」
ジンが笑う。その笑顔を、「なぁ?」と理が見上げる。
「…妖精って本当にいんのかな?」
その質問に、ジンが心配そうな顔を向ける。
「…幻覚でも見たのか?」
その言葉に、「…だよな」と笑う。自分で「何を言ってるんだ」と思った。
「働きすぎだ、少し休め」
「だよな」ともう一度言い、笑った。

 「おら、理!」
そのとき突然、宗悟が理の背中におぶさり、首を絞めた。「なにすんだ、お前!」と抵抗する。
「さっきはよくも投げてくれたな!」
柔道の授業。宗悟と理が試合をした。ぎこちなく技をかける宗悟を、理は力で無理やり投げ飛ばした。
「今に見てろよ!技を磨いてお前の事ぶん投げてやるからな!」
「おめーには負けねーよ!」
理がそう言い返す。宗悟が「なにをー!?」と今度はプロレス技のような絞め技をかけた。
「あほ、やめろ!」
理が抵抗する。
「くらえ!コブラツイストだ!」
「柔道じゃねーだろ!」
理が、自分の胸の辺りにある宗悟の右腕を掴んだ。そしてそのまま力を込めて握り絞める。宗悟が「いでででで!」と声を上げた。

「ふふふ」

その時、小さな笑い声が聞こえた。聞き覚えのあるその声に、理がそっちを見る。あの時の、あの女性の後ろ姿が見える。長くて黒い美しい髪の毛が揺れていた。
「あのっ…!」
声をかけようとするが、「待てっ!」と宗悟が絞める力を強くした。その間に、女性は曲がり角を曲がってしまった。
「逃げようったってそうはいかねぇぞ!」
「今そんな場合じゃねぇんだよ!」
理が宗悟の体を無理やりひっぺがした。そして、女性を走って追いかける。あの背中が見えた曲がり角を曲がる。
「いない…」
しかし、女性の姿は見つけられなかった。どこかの部屋に入ったかとも思ったが、ドアが開く音や閉まる音は聞こえなかった。
「…階段か!」
理が階段を上がる。最上階の三階まで、一気に駆け上がった。
「…いない」
理が階段の入り口で息を切らして座り込む。

しかし。

しかし理は、あの人の姿を確実に見た。確実に、この学校の人間である事は間違いなかった。
「見つけた」
そう思う。自然と笑顔になった。
「…なにしてんの、こんなところで」
声をかけてきたのは、理のクラスの音楽の授業を担当している先生だった。上品な年配の女性という雰囲気の人だった。理が、「いえ、なにも」と汗だくで答える。
「柔道場はこっちじゃないわよ」
そう言って先生が笑う。
「いえ、すいません」
理が謝って立ち上がると、その場を後にした。

「…いた」

階段を降りながら、笑顔でつぶやく。この学校の人間なら、また会える日は必ず来る。

 そして、本当にそれから理は、時々あの女性に会えることがあった。しかし不思議と、「会おう」と思って探すと見つけられない。しかし、教室移動や休み時間の隙間。バイト前の下校時。何気なく歩いていると、ふと会えるときがある。
後ろ姿が見れたり、遠くに姿をとらえたりと、「会えた」というよりは「見つけた」という方が正確だが、それでも理は、その姿を一目見れただけで幸せだった。その日が「いい日」になり、辛い毎日だが、「生きていこう」と思えたのだった。

 ある日の、放課後。
「今日もバイトか?」
荷物をまとめる理に、ジンが聞く。
「いや、今日は休みなんだ」
「おう、良かったな、ゆっくり休めよ」
「そうするよ」
「もう幻覚見ないようにな」
「もう見ねーよ」
そう笑って答える。理が見ているあの姿は、もう幻覚じゃない。

 理が階段を降りる。疲れた体で下る階段は足取りが重たい。

「さよなら」

「あ、さよ…」
理の足が止まる。あの女性がいた。理の中途半端な挨拶に小さく微笑むと、その人は颯爽と階段を上がっていった。その背中を見送る。美しすぎる後ろ姿に見とれ、体が動かなかった。

「…あ、危ない、危ない」

ハッと気が付いて、階段を降りる。

「やったぁ」

「今日は良い日だ」と思い、そうつぶやいて下駄箱に向かおうとした。

だんっ!

地面を強く蹴り、自分の足を止めた。
「…いや、待て」
今までは授業と授業の間。もしくは、バイトがある日だった。だから、追いかける事が出来なかった。しかし、バイトのない今日なら。

理が走って階段を上がる。あの女性の背中を追いかける。

「いた!」

女性をみつけ、心の中で叫ぶ。理が、静かにその背中を追いかける。

 声をかけたら。足音を立てたら。その音に驚いて、この場から飛び立ってしまうかもしれない。まばたきをしたら。その瞬間にふっと消えてしまうかもしれない。そう思い、怖くてそれが出来なかった。

 息を殺し、目を見開き、足音を立てないように歩く理の姿は、周りから見れば不審な男だったに違いないが、そんな事を気にしている場合じゃなかった。
「見逃してたまるか」
ここで見逃したら、また振り出しになる。ただ一点。その人の美しく揺れる長い髪の毛を追いかけていた。

どん。

三階に辿り着いた所で、理が誰かとぶつかる。何も言わず、手でどかした。

「おい!」

理にどかされた男が叫ぶ。だが、気にしている場合ではなかった。
「シカトこいてんじゃねぇ!」
その声と共に、背中を蹴られた。その場に倒れ、「うっ」と声が出る。
その姿に、その男と周りのとりまきが笑う。
「このやろう…」
倒れたまま、その男を睨む。「消えちゃったらどうすんだよ」と低い声を出す。
「何言ってんだ、お前」
その男が笑う。周りのとりまきも声を出して笑った。
「黙れ!」
これ以上の音を出されたら、本当に消えてしまう。そう思った理が叫んだ。
「お前が黙れよ!」
その男が理の顔を殴った。左頬を痛みが襲う。
「おい」
声がしてそっちを振り返ると、取り巻きの独りが飛び上がっていた。
「なっ!」
驚く理の胸に、その男の飛び蹴りが入る。

どんっ。

「うぉぁぁあああ!」

理が階段を転げ落ちた。二階との間の踊り場に理の体が落ちる。それを見て、男たちがニヤニヤと笑った。
「このやろう…」
理が下から睨みつける。

ダン!ダン!ダン!

理が三歩で階段を駆け上がると、その勢いのまま飛び蹴りを返した。やり返された男がその場に転げる。

「もうちょっとだったんだぞ」

理がそう言う。その理の右頬を、ぶつかった男が殴った。
「てめぇ、さっきから何言ってんだ!」
「うるせぇ!」
理が殴り返す。それをきっかけに四対一の乱闘になった。

「はぁ…はぁ…」

乱闘の末。理の周りに、四体の死体が転がる。
「…消えちゃったじゃねぇか、このやろう」

「また振り出しか」そう思うとガッカリした。体の痛みよりも、その心のダメージの方が大きかった。落胆しながら階段を降りようとした。

「…ん?」

理の耳に、かすかに、ピアノの音色が聞こえてきた。
「…音楽室?」
三階の端っこに、音楽室がある。その音色に吸い寄せられるように、理が音楽室に近づく。近づくにつれ、聞こえてくるピアノの音色が大きくなる。
音楽室の扉の前。ピアノの音色に耳を傾ける。

「あの人だ」

そう確信した。ピアノを奏でる姿は見えていないが、その音色から、あの美しい姿をくっきりと映しだす事ができた。
「やっと見つけた」
安心からか、喜びからか、理の体から力が抜け、その場に座り込んだ。
「はぁ」
息を吐いて、壁に寄りかかる。音楽室からは、ピアノの音色が聞こえ続けていた。理の顔に、小さな笑みが浮かぶ。その後しばらく、その音色に耳を傾けていた。その時間は、とても心地が良かった。
 「何してるの、こんな所で」
声をかけてきたのは、理のクラスの音楽の授業を担当している先生だった。「いえ、別に、何も」とごまかす。
「血が出てるわよ?」
「転んだんです」
「…どんな転び方よ」と笑いながらそう言い、先生は音楽室のドアをノックした。演奏が止まってしまう。
「はーい」
中から声が聞こえる。あの時の「さよなら」の声だ。あの時の、小さな微笑みだ。聞き間違うはずがない。
「ちょっと、松下先生」そう声をかけながら、先生が音楽室に入った。
「どうしました?」
「あなた、ちょっとは、部屋をかたづけ…」そう言いながら、先生はドアを閉めてしまった。
「まつしたせんせい」
理がつぶやく。あの人は、松下というのか。初めて、名前を知ることができた。
ずっと憧れていた人のことを、一つ、知ることができた。

 理が校舎の玄関を抜け、正門に向かっていた。その姿を、正門の隣の花壇の縁に美緒と一緒に腰かけるジンが見つけた。
「おい、理!」
ジンが声をかける。しかし、理には届いていないようだった。
「…あの人、おさむくんっていうの?」
「知ってるの?」
「合格発表の時、見かけたの。なんか、辛そうだったけど」
「…色々あるやつでさ、毎日大変なんだよ」
「そうなんだ」
「…でもなんか、今日は機嫌良いな」
ジンがつぶやく。美緒が「そうなの?」と覗き込んだ。
「よくわかるね」
そう言って、微笑んだ。

 ある日、委員会を決める授業があった。文化祭や体育祭の実行委員や、学級委員などは内申に有利に働くため、すぐに決まった。図書委員も、比較的仕事が楽なため、立候補する生徒も多い。最後まで決まらないのが美化委員だった。美化委員は大変だ。大変な上に、内申にも特に有利に働かない。手を挙げるものはいなかった。
「宗悟、やれば?」
ジンが言う。「内申点つくじゃん」と。
「つったって、美化委員じゃなぁ。微々たるもんだろ。それに部活あるしよ。ジンこそやれよ。部活もやってねぇんだから」
「あほか。美緒と過ごす時間減るじゃねぇか」
「そんな理由かよ」宗悟が笑う。
「めちゃくちゃ大事だわ」ジンも笑った。
「理はよ?」
「美化委員ってなにすんのよ?」
その声が聞こえていた、その場を仕切っていた決まったばかりの学級委員が答える。
「主な仕事は特別教室の掃除です。それから、正門の隣の花壇に水を撒く仕事もあります」
「特別教室?」
「科学室とか、視聴覚室とか、音楽室とか…」

「やります!」

理が手を上げた。
「理?」
「俺がやります」
「お前、大丈夫なのかよ?」ジンが心配の声をだす。
「うん、大丈夫」
そう頷く理の顔に、「そうか」とジンも頷いた。

理は、音楽室の掃除をすれば、松下先生と、ほんの少しでも話せる時間があるかもしれない。そう思った。

全ての授業が終わり、理が階段を降りる。

「さよなら」

頭の中で、あの声が蘇る。

次にあの声を聴ける日は、いつだろうか。

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