変わるわたしと「自分らしさ」


友人から「Bさん、変わったよね」と言われた。

自分でも、変わった自覚はある。ただ、自分はポジティブに。その言葉を発した友人はややネガティブな意味合いでその変化を捉えていたようだ。「変わった」というのはつまり、人から見た「自分らしさ」が変化したということだろう。でも、自分らしさっていったいどういうものなんだろうか。

わたしは、自分のことを短気だと思う。「小さなことでも、すぐにカチンとくるんですよ」と言うと、あまりそういうイメージがないのか、けっこう驚かれる。自分と他人のイメージする「少年Bらしさ」に差がある例だ。

いま、わたしが短気だと思われなくなったのは、大きく2つの理由がある。


現代は「何を言うかより誰が言うか」の時代である。googleのアルゴリズムはおなじ検索ワードでも、無名の素人よりも識者や企業が書いたサイトを優先し、「何者か」になりたい人々はこぞって影響力や肩書きを求め、インフルエンサーを目指す。それについてどうこう言う気もないが、言葉遣いついてもそれと同様だな、と思っている。

「何を言うかより誰が言うか」なのだ。「一般的に相手を下に見る言葉」を使う相手であっても、「その意図」をまで考えるようになった。端的に言えば「世のなかには無自覚に相手を怒らせるタイプの人間がいる」ということに気付いたのだ。

その裏に悪意や侮辱の意図がなければ、「その言動」自体に腹を立てる道理はない。相手は単に「自分の見せかたがめちゃめちゃ下手な残念な人」である。真面目に怒るほどのものではない。そして、「相手を変えよう」などとお節介を焼く義理もない。過去と他人は変えられない。もちろん、付き合わなくていいなら付き合いたくない相手かなとも思うが、相手によってはそうも言ってられない部分もある。だったら、自分が気にしない以外に方法はない。表面上の言葉や態度より、その裏にある感情に気を配るようになった。


もうひとつは年を重ねて「そう見せないようにする術」が身に付いてきたことだ。残念ながら意識がひくいのでロールモデル、いわゆる「なりたい自分像」なんか存在しないのだけど、「こうはなりたくねぇな」って思う人間は山ほど見てきた。

それは例えば、いつも怒鳴り散らしてばかりの上司であったり、大人げないパートのおばちゃんだったり、イキって毒舌キャラを気取ってた過去の自分だったりした。どの人も、負の感情が前面に出ていた。

負の感情を表に出すこと自体の是非を問う気はない。単に、わたしが「自分はそうなりたくないな」と思っただけの話だ。「なりたくない自分像」が見つかれば、全力でその状態を回避するしかない。結果、少なくとも表面上は、内心ブチ切れてるのを悟られない態度でいれるようになったのだと思う。

あくまでも過去の積み重ねによって「そう見せている」だけで、「今見せている自分」は「本当のわたし」ではない。例えば、精神的な余裕を失ったり、体調が優れないなどの理由で、「ふだん気を付けていること」ができなくなることもあるだろう。じゃあ、実際は短気なわたしが人前で突然怒鳴り散らしたとしたら、それは果たして「わたしらしくない」行動なのだろうか。


そもそも、時期によって「自分」が変わりすぎるのだ。いまはなんとなく穏やかで、食いしん坊で、いつも昼まで寝てるやつ、というイメージがあるような気がするんだけど、それはここ数年のこと。

食いしん坊なのは子供のころから変わらないが、毒舌キャラで笑いを取ろうとするあまり、どんどん言葉が強くエスカレートしたこともあったし、「あなたはいつも怒っている」と苦言を呈されたこともあった。前職時代は週6勤務で、毎日10時間以上働いていたし、ぽっちゃり体型なのは高校2年生のころにアトピーの薬を変えてからで、それまではずっと細身でガリガリだった。ほら、その姿は想像がつかないでしょう。

知り合った時期によって、相手の認識している「自分」は変わる。全員とおなじタイミングでは知り合えないので、世のなかには少年Bを「強い言葉で他人をこき下ろす奴」と認識したままの人もいる。そういう人にとっては、いまのわたしが「らしくない」と思うだろう。


2年前、わたしは自分を殺して、全方位にひたすら気を遣い、なんとかこれまでとは違う「良い人間」になろうとしていた。なぜなら、そのわずか1年前には公私の両面で「お前はどうしようもないクズだ」と言われ、居場所を失っていたからだ。

わたしを傷付け、尊厳を踏みにじった連中を許す気はさらさらないが、これだけ多くの人に非難されるのは、わたしの側にもそう見られる原因があるかもしれない……とも思った。「あいつらにどう思われようが知ったこっちゃないが、次に会う人たちにはそう思われないようにしよう」と本気で自分を変える決意をしたのだ。

そして「自分の見られかた」に気を配り、理屈で負の感情を抑え込んだわたしの周りには、多くの友達ができていた。

もう、大丈夫。自分を殺して得た振る舞いは、徐々に身体になじんできた。あとは、自分の感情とのバランスを取るだけだ。そうして、いちどは殺した「自分」をすこしずつ取り戻したとき、冒頭の「変わったよね」という言葉をかけられたのだ。わたしは「いまの自分」がいちばん自分らしくて好きだが、もしかしたら、友人はそう取らなかったのかもしれない。


「ふざけるな、俺は生まれたときからずっとこうだ。お前が勝手に自分の理想を押し付けたのだろう」

記憶に頼って書いているので、正確かどうかはわからないが、たしかこんなセリフだったはずだ。マンガ「明稜帝 梧桐勢十郎」の主人公・梧桐勢十郎が「こんな人だと思わなかった!」と言われた際に発した言葉は。


結局、他人が見ている「あなた」は一面的なものであって、内面まで100%見通すことは不可能だ。そして、わたしたちはたぶん、マンガの主人公のように「生まれたときからずっとこう」と言える強さを持っていない。だからこそ気になってしまうのかもしれない。芯は一貫した人間でありたいと思っているけど、時期や相手によって、他人に与える印象が大きく変わる人も多いだろう。わたしだってそうだ。

でも、たとえ「自分」を強く持とうが持っていなかろうが、人には人の見かたがある。結局のところ、あなたの持つ「あなたらしさ」を判断するのは、他人には無理なことじゃないだろうか。

よくもわるくも「変わったね」という言葉はあくまで、「見られかた」の話であって、自分らしさが失われたわけじゃない。「見られかた」が悪くなりすぎると、かつてのわたしのように居場所を失うかもしれないし、自分が意識していない変化であれば、気を付けたほうがいいかもしれない。

でも、「自分で納得している変化」であれば、そこまで気にすることでもないのかな、と思うのです。今のわたしがいちばん「自分らしい」と知っているのは、わたしだけのはずだから。


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