見出し画像

なぜ無責任な言葉を押し付けてしまうのか


老害になりたくない。

冗談半分の言葉なんだけど、つまり残りの半分は本気ということだ。
まもなく34歳の誕生日を迎えようかといういま、「おじさんじゃねぇ、まだお兄さんだ!!」と強がってはみるものの、かくじつに身体は衰えている。かわいい女の子を見るよりも階段の上り下りで胸が高鳴るし、枕からお父さんのにおいがしたときはショックすぎてマジで泣いた。
かなしいことに、加齢は待ってくれない。わたしはどんどんおじさんになっていく。

いや、年を取るのはしかたがない。生きとし生けるものはみな年を取るのだ。なにがいやかって、困っている若者に、したり顔で上から目線の説教をするおじさんになることだ。
上から目線のクソなアドバイス。いわゆるクソバイスってやつだ。
これはもう、害悪でしかない。たまに有用なこともあるのだけど、結局上から目線なのは変わらないので、だいたいの場合気分はよろしくない。

もちろん、すべてのおじさんおばさんがこういう話をするわけではない。じゃあ、どうしてこういうことになるんだろうか。そして、どうしたらそうなる未来を回避できるのか。


結論から言ってしまえば、人間は自分の経験でしかものを語れない、なんじゃないかなぁと思う。

これは自分で「体験した話」とイコールではない。本で読んだ知識も、ひとから聞いた話も、目で見たものごとも、ぜんぶ自分の体験ではないけども、「経験」にはなる。

たとえば「大学なんかいかなくても平気だよ」と言うのは、ポジショントークを抜きにすれば、「大学に行かずに成功しているひとたち」か、「大学に行ったけど満足のいく生活を送れていないひとたち」。または「そのどちらかを身近で見ているひとたち」のはずだ。


年齢を重ねていくと、経験がたまっていく。語れるものごとが増えてゆく。
もしも、自分に見当もつかない問題であるならば、わからないなりに、仮定の話として話すことになるだろう。自信がないのだから、えらそうに話すことなどできないはずだ。

逆に、自分の乗り越えてきた話だとどうだろう。受験の話、就活の話。上司や取引先との付き合いかた。自分が工夫をして、考えてやり遂げてきた話ほど、饒舌になる。自分の正解を話したくなる。それが受け入れられないと「若いやつは軟弱だなー、おれたちの頃は……」となるのではなかろうか。
これはその、なんというか自分でもすごくやりかねなくてこわいのだけど。


自分と他人はあくまで別人。おなじ体験をしたからと言って、おなじ感想を持つとは限らない。解決するのに、おなじ手段を使えるとも限らない。
たぶん、その認識ができていなければ、アドバイスはクソバイスになってしまうような気がする。共有できない経験を元にした話に、理解や感情を重ねるほうが難しいんじゃないだろうか。だからこそ、話しかたや説明のしかたには気を配らなければならない。

逆に、そう考えると、ひとの意見に振り回されることはなくなるような気がする。結局のところ、他人の話なんてみんな無責任なもんだ。自分は自分と割り切って、納得できそうな意見だけを自分の責任で選び取っていけば、人生ってすこしだけ楽しくなるんじゃないかな。

ま、そう言うわたしの言葉も無責任なんですけどね。


もうすこし読みたいかたはよかったらこちらもどうぞ。


#エッセイ #日記 #コミュニケーション #人間関係 #思考 #価値観

最後まで読んでいただいてありがとうございます。 よかったらまた遊びに来てくださいね。 スキを押していただいたり、コメントを下さったり、Twitterで話題にしていただけたらとってもうれしいです。 ※スキはnote会員じゃなくても押せます。励みになりますのでもしよかったら。