空想の景色を撮り続けて見えた流星について。
「ユウゲンの極光」シリーズの撮影を始めて約半年が過ぎた。
2019年4月に参加した企画展の際に用意したフレーバーテキストにも書いていたが、「ユウゲンの極光」シリーズは他の作品を撮影していた時に偶然撮れた写真がスタートだった。
撮影した時の状況、カメラや機材の設定をもとに再現を試みたが最初はうまくいかず、モデルさんに申し訳ないと思いつつ何時間も動き回らせたり機材の微調整を繰り返していた。
私は作品制作において偶然の発見(セレンディピティ)を大切にしていて、その奇跡あるいは閃きこそが人間にとっての創造の源だと捉えている。
いつ降ってくるのかわからない流れ星のような出会いが人生であと何回あるのか、そういった輝きを見逃さないために撮影のみならず座学や様々な思考実験を毎日行うことが私の制作基盤であり、おそらくその部分に関しては多くのアーティストが同じように日々積み重ねている事だと思う。
「たまたま空を見ていたら流れ星を見ることができた。」
そこで終わってはならない。何故流れ星を見ることができたのか、次にそれが起こるのはいつなのか、もっとはっきり見るにはどうすれば良いか。その疑問を解き明かしていくことで偶然の出会いを必然へと変えてゆく。
こうした偶然性と必然性が揺れる天秤を見つめてゆくことが自分自身や社会を理解してゆくことにつながっていく。
この過程を経て偶然撮れた写真を意図的に生み出すことが可能になると、次は色や模様などをどのようにコントロールするのかを考える。そこで今大事にしている事は見た目の美しさ・格好良さだけを考えないということ。
2019年現在、肌感覚で伝わってくる世界の欲求は「わかりやすい美しさ」であると感じる。”SNS映え”と言ったり、それが過剰になるとルッキズムなどと言ったりするが、目の前にあるものをいかに見映えよくするか、他と比べてどれだけ美しいのかということが判断基準となり、本質よりも人々の心を動かすものになっているように思う。そのムーブメントのために過剰な演出をしたり写真を合成して本質さえも歪められてゆく。
世界の形や人間の想いは波のようなもので、その賛否について議論する事は無意味だと考えている。私がやるべきことはその海原をどのような船で漕ぎ出すのかということ。
私は観光客に過ぎず、都市やそこに住む人と関わることはできても深く結びつくことはできない。彷徨い歩き、また家に帰る。そんな船旅を繰り返している。
作品のコントロールについての話に戻す。
色や模様を操る際に私は上記の現状に対して思想でそれらを紡いでゆく。私自身が抱える死生観、フィロソフィ、コンテクスト、トラウマなどを技術に変換して配置してゆく。そこにさらに偶然性と必然性の揺らぎを生むための調味料をひとつまみ入れる。そうして生まれた作品が「わかりやすい美しさ」を内包していたとしても、それはあくまで偶然に過ぎないと明言できるようにするために本質を最優先して撮影してゆく。
そうしてマイナーチェンジを繰り返しながら半年が過ぎた。Twitterでは平日の深夜に毎日2〜4作品公開していて、2019年8月現在、およそ150作公開してきた。まだ公開していないものを合わせれば400作ほど仕上がっている。半年でこれだけの数が作れるのも写真の魅力であり、私がそれほど熱中して取り組んだ証でもあるのだろう。
そこでこの半年間撮ってきた作品を一旦まとめるべく、写真集を制作している。販売形態としてはKindle電子書籍を予定。気持ちとして紙媒体で出したいのだが、出版するためにはどこかのコンテストで受賞して出版社に声をかけていただくか、普通自動車1台分ぐらいの資産を投入するしかないので、それこそセレンディピティが訪れることに期待しよう。
発売は2019年9〜10月を予定。この写真集の為に様々な方に現在ご協力をいただいているので、きっと良いものになるでしょう。また京都で11月に行われるグループ展にも出展させていただくことになったので、合わせてご期待いただければ幸いです。
詳細が決まればまた報告しますのでフォローしていただけると嬉しいです。
小さな船でも、ここから見える夜空をより多くの人と共有すべくこれからも旅を続けてゆく所存です。