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『池崎忠孝の明暗』(全紙掲載本を読む)

本書は、〈近代日本メディア議員列伝〉シリーズの第六巻に当たります。刊行順でいえば、第一号です。

本稿執筆時(2024年6月末)で、11巻『橋本登美三郎の協同』が刊行されていますから、11人以上のメディア議員が紹介されるのでしょう。1巻、4巻、6巻、8巻、9巻、10巻は、版元のホームページに書影がまだ上がっていません。

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巻のナンバーを若い順に並べると、扱っている国会議員は、時代が古い順に時系列になっていることがわかりました。

だれが題材になるのかが、気になるのです。本書を読んで、他のシリーズも読みたくなりました。

その理由は、私(評者)がメディア界隈の人間であることもありますが、筆者の問題意識が、まっすぐ現在の政治状況に向かっていることが大きいと思います。SNSによって現在の議員は多かれ少なかれ、メディア化しています。そのメディア化した議員のニッチェ(生態)を、いわば「先行者」である池崎の人生に見ているのです。


A級戦犯のベストセラー作家

  池崎は、一般に戦争を扇動した作家として知られています。著作として

  • 『米国怖るゝに足らず』(1929年)

  • 『大英帝国日既に没す』(1931年)

  • 『宿命の日米戦争』(1932年)

  • 『天才帝国日本の飛騰』(1933年)

  • 『日米戦はゞ』(1941年)

などが知られています。ベストセラー作家です。

戦後は戦争責任を問われてA級戦犯となり、巣鴨プリズンに収監されます。このため、「好戦主義者」のレッテルを貼られ、太平洋戦争を特集したNHKのドキュメント番組でも、対米戦争へと世論を誘導した知識人の代表と描かれました。

しかし、本書はそのようなステレオタイプな見方を否定します。世論を先読みして同調していくメディア議員としての振る舞いは、池崎の一部に過ぎないことを示します。そうすることで、現在に続くメディアの陥穽(ステレオタイプの解釈もその一つの典型です)を逆照射してみせたのだと感じました。

社会主義者に憧れた漱石の門下生

池崎忠孝は、1891(明治24)年、赤木忠孝として岡山県に生を受けました。幼少期から才気煥発で、東京帝国大学在学中に鈴木三重吉の紹介で夏目漱石の門下に入り、漱石に可愛がられました。「赤木桁平」のペンネームで、漱石の最初の評伝『夏目漱石』を執筆しています。

世に出るきっかけは、1916年、帝大三回生の時に新聞紙上で発表した論文「『遊蕩文学』の撲滅」でした。

遊蕩文学とは、酒や女に溺れ、享楽的な生活を送りながら、その体験をもとに作品を執筆する作家たちを指します。赤木は、自己を「よりよきものにしようとする」大正教養主義者の視点から、遊蕩文学者らが真実の人間生活から目を背け、堕落した生活を送っていると批判し、センセーショナルな論争を巻き起こしました。

しかし、この年に漱石が亡くなると、この早熟な文芸評論家は、ジャーナリストへ転身を図ります。この時の忠孝を「大正教養主義者として登山口で岐路に立っていた」と筆者はみています。

1914年には第一次世界大戦がはじまっていました。忠孝は評論家としてではなく、「世界大戦を報じる新聞記者となる道」を選びます。

忠孝が中学生のころ、父親が炭鉱の経営権を巡って三菱財閥を相手に起こした訴訟で敗訴が確定し、一家離散の憂き目にあいます。当時忠孝が憧れたのは、元『萬朝報』論説記者で、大逆事件に連座して極刑となった社会主義者の幸徳秋水でした。長じてからも、秋水への思いは消えなかったようです。

1917年に文芸評論家から転じた最初の先が、『萬朝報』記者だったのは、当然の選択だったのかもしれません。

輿論と世論

ジャーナリズムで得た経験と知名度をテコに、忠孝はベストセラー作家になります。そしてついにはその人気を背景に衆議院議員へと歩を進めるのでした。

そこでのキーワードが「輿論」と「世論」です。本書の表現を借りると、公的意見が「輿論」で、大衆感情を反映するのが「世論」です。

忠孝が当選した第19回から21回にかけての総選挙は「メディア議員」の全議員に占める割合が絶頂に達した時期でした。第19回では33.9%、第20回では34.1%に達しています。「にもかかわらず、なぜ戦争を止められなかったのか」、という問いを、筆者は倒立させます。

むしろ、逆ではないのか。(略)メディア議員が議会に多くいたために、戦争を止めることはできなかったのではないか、と。なぜなら、彼らは何らかの価値や理念の実現をめざす「政治の論理」ではなく、読者数あるいは影響力の最大化をはかる「メディアの論理」に従って動く議員だからである。「政治の論理」は輿論public opinionの指導を目指すが、「メディアの論理」は世論popular sentimentsの体現を追求する。(略)彼らがこうした世論反映のプロフェッショナルである場合、はたして好戦的になった大衆世論の奔流に抗して平和の理念を保持できただろうか

ここに筆者の主張の核心があると思います。ジャーナリズムから転じた政治家が、はたして世論に抗して、輿論をもって国民を率いることができるのかという問いです。

筆者はその回答の一つとして、1936年に締結された日独防共協定の議論を取り上げています。1937年7月に行った初めての議会演説で、忠孝は防共協定不要論を唱えていました。

国家の面目、体面の上から言っても、私はあんな協定なんぞ要らぬと思ふ。それより今日の日本の国力を以てするならば、今日の日本は光栄ある孤立を守った方がまだ何処か男らしさがあり、是が日本皇紀二千六百年の伝統的の精神に対しても宜いと思ふ。

しかし、一方で、日独防共協定を特集した同じ年の『文藝春秋』新年号にはこう書いているのです。

このたび締結された日独防共協定のごときも、在来の左顧右眄的な態度を捨て、自国の立場をはつきりさせた上に、我が国の自主外交が辿るべき道を、堂々と世界各国の前に明示したことは、たしかに賞讃していいことだ。

筆者はこれを、「大衆世論を先読みした評論」「とても国会の外交論戦で輿論指導を行う者の語るべき内容」ではない、と批判したうえで、「世論反映のメディア政治家はそもそも外交には有害に作用する要素なのかもしれない」とまで言い切っています。

こういう記述もあります。
忠孝が、太平洋戦争勃発の10か月前、1941年2月に世に問うた『日米戦はゞ』には、

約言すると、太平洋の戦略的状勢は、明かに攻めた方が負けることになってゐる。

と明記されていました。その専守防衛論者が、真珠湾攻撃成功の報を受けて、

吾人の脳裏を支配した日本海軍の基本戦略は、徹頭徹尾攻勢防禦といふ一語に尽きてゐた。しかし、真にハワイ根拠地の喪失が予想されるとしたら、吾人は今や何の必要あつてこの一語に拘束されることがあらう

と感激を書き記しています。

SNSを駆使する「メディア議員」

忠孝がメディア議員として、大衆の支持(=票)を得るために、大衆の考えを先取りして著作を執筆していたのだとしたら、ネット時代への教訓は小さくはありません。筆者はいいます。

今日私たちが目にする政治家はSNSで日々刻々と情報を発信するわけであり、その多くは理念よりも影響力を重視している。そうしたウェブ体験を経て当選した議員は、多かれ少なかれメディア議員なのではないだろうか。

メディアの論理が、大衆の世論に共感を示して影響力を最大化することであるとしたら、 政治のメディア化が進むに連れて、政治家は大衆迎合的な政策を打ち出すようになるのではないか。それは民主主義の危機につながらないか、本書の大きな問いがそこにありそうです。

浩瀚な本書の最後の最後に、筆者はこう述べています。深く納得しました。

政治家・池崎忠孝の挫折こそ、今日の政治的知識人が自省すべき鑑となるのではあるまいか。それは大正教養主義者の悲劇とも言えるが、彼の悪戦苦闘にこそ歴史家が探るべき人間の真実があるのではないだろうか。


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2023年

2019年から2022年


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