「私とは何か?」vs「私は誰か?」 科学と介護3
約半世紀前、学生だった私には「実存」という言葉はとても新鮮で刺激的な言葉として響いていたように思います。しかし、いつのまにか「実存」という言葉を聞かなくなり、もうすでに死語になっているように思います。
介護の世界でも「実存」という言葉はまったく聞かれません。「実存」などという概念、言葉は介護の世界には無縁のように思われています。
でも、介護を熟考する際には、この「実存」という概念はとても大切なものだと私は思います。
特に、介護の世界でよく聞かれる、「個別」とか、「個性」とか、「一人ひとり」とかという言葉で表そうとしている事柄の解像度を上げるためには「実存」という概念が不可欠だと思うのです。
1.科学的・客観的介護の罠
(1)EBC・エビデンスに基づく介護
近年、LIFE(ライフ;Long-term care Information system For Evidence;科学的介護情報システム)に代表されるような、科学的介護、エビデンスに基づく介護(EBC:Evidence・Based・Care)の重要性が強調されています。
※ エビデンス主義の問題点については以下のnoteを参照願います。
確かに、なんとなく、惰性で介護されては困ります。
介護において客観的・科学的な当事者(お年寄り)のアセスメント結果を前提に介護することは大切かつ必要なことでしょう。
(2)当事者の客体化・受動化・非主体化
しかし、介護は客観的・科学的という視点だけでは捉えきれないはずです。私の懸念は、客観的・科学的介護へとシフトしていく大きな潮流の中で介護サービスを利用する人々の当事者性、固有性、実存が蔑ろにされていくのではないかということです。
なぜなら、客観的・科学的に当事者を分析・理解するということは、当事者を客体化し、事物として理解し、受動的存在として取り扱うことにつながるからです。
そして、科学的な客観化、客体化思考は、当事者の主体性、固有性、実存を無視し(左右されず)、当事者を単なる観察される事物、働きかける事物存在(受動的なお客さん)にしかねません。
当事者が完全に受動的な存在、非-主体的存在として介護施設に立ち現れるとき、当事者(入居者)の訴え、主観は無視され、業務の論理・都合が最優先される「業務日課」至上主義(注1)が強化され、蔓延っていく怖れがあります。
しかも、ここでもパターナリズム(温情的庇護主義:注2)により職員の自意識は全くの善意であって、当事者を客体化・事物化し、当事者の訴えに耳を貸さず、粛々と業務を遂行していくようになりかねないのです。
注1:「業務日課」至上主義については以下のnoteをご参照願います。
注2:パターナリズムについては、次のnoteをご参照願います。
2.実存論的理解の必要性
(1)介護で大切なのは経験の理解
より良い介護のためには、客観的・科学的理解とは別の理解の仕方も必要だと思います。
私は介護においては、当事者の経験を理解することが大切だと思うのです。介護サービスは当事者にとっては経験なのですから。
人間を理解する方法には客観的/科学的理解と人間の心的/内的世界(体験)の理解という二種類の方法があるように思います。
ようするに、人間を事物として外から観察するのか、または、心理、経験を内的に辿ろうとするのかということですが、介護では人間を外部から客観的・科学的に把握するだけではなく、人間の内面、経験を把握することが大切です。
ここでいう経験、理解したい経験とは、一人の名前を有した、ほかならぬその当事者(お年寄り)の固有な経験です。
(2)「私とは誰か?」人は自分に無関心ではいられない
そもそも、人間は自分の固有な存在に無関心ではいられないもののようです。
池田喬(哲学者)さんは、人の独特な自己への関心の向け方について、次のように指摘しています。
また、池田喬さんは、人間は、自分の存在が気がかりであり、「私は誰か」を問う存在であり、他の誰でもない自分、固有な自分、つまり、実存だとしています。
(3)「私とは何か」vs「私は誰か」/自我と実存の違い
ここでいう実存とは、どういうことなのか。どういう事態なのか。
池田喬(哲学者)さんは「私とは誰か」と問う存在が実存だとしています。
さらに、池田喬さんは「私は誰か」という問いは、「私とは何か」という問いと異なっていると指摘しています。
「私とは何か」という問いについて次のように説明しています。
ようするに、「私とは何か」と問われれば、それは一般性を有した「自我」だということになるのでしょう。ポイントは「私とは何か」という問いがもたらすのは固有の私ではなく、一般的な私、「自我」だということです。
この「自我」についての理解を深める際には、心理学や脳科学、社会学などが参考になるのかもしれません。
これに対して「私とは誰か」という問いへの回答は、自我のような一般的な私ではなく、固有の私、実存ということになります。
(4)実存的経験と実存論的経験
人間は自然にそして日常的に実存として生きていて、実存的な経験、固有の経験をしているのですが、池田喬さんは、その「実存的」経験の理解を構造化すること、つまり、より深い「実存論的」な理解について次のように説明しています。
確かに、不安や恐れに見舞われ、死へと差し向けられている人間の基礎的な理解には、この実存についての「実存論的」な理解が不可欠だと思われます。
当事者の客観的・科学的理解と当事者の固有な経験とその実存論的理解との両輪が無ければ良い介護はできないのではないかと思うのです。
3.介護に必要な実存概念
(1)個別ケアの極北(極限)=実存
介護は介護される者と、介護する者との相互行為です。
相互行為であるからには、お互いに理解し合えること、了解しあえることが大切です。
また、介護は個別ケアが大切だとされています。
個別ケアとは何かをChatGPTで調べたら次のような回答でした。
当たり前と言えば、当たり前の回答でしたが、個別ケアの基本条件は高齢者の個々の状況を的確に把握することだということです。
この個々の状況の極北、極限は、私という固有の存在、実存だと思います。
この、固有の私という一人称的観点からみた経験を理解することが、個別ケアの基本だと思います。
(2)経験を探求する現象学
池田喬さんは、この一人称観点から私たちの経験を探求する哲学が現象学だと紹介しています。
この、一人称観点から経験するとはどのような事態なのか、池田喬さんは次のように説明しています。
一人称観点からの経験とは、自分がどういう存在であるかを問い、自己を了解し、「私にとって」という方向性を有した実存的経験であり自己了解という局面が含まれている、自己了解としての個別経験ということでしょう。
私たちの経験の|地《じ》(注)または背景には自己了解があるということではないでしょうか。
(注):図と地(Figure and ground)という場合の「地」のことです。
(3)生活世界
この一人称的観点から経験を探求する現象学の意義について、池田喬さんはザハヴィ(Dan Zahavi, デンマークの哲学者1967年~)の次の言葉を紹介しています。
生活世界とは、科学によって理念的に構成される以前に、私たちが身体的実践を行いつつ直観的なしかたで日常的に生きている世界のことです。
生活世界では地球が丸く太陽の周りを回っているのではなく、太陽は東から上がり、西に沈んでいるのです。
当事者(お年寄り)が経験している日常の世界を深く理解すること。それが介護の基本になると思います。
科学主義的、客観主義的、エビデンス主義的な介護が強調される時代だからこそ、その対極にある現象学的な人間理解、実存の理解が求められるのではないでしょうか。
生活世界は、介護を熟考する際にとても重要な概念だと思いますが、この生活世界については、以下の「そんそん」さんの文章がとても分かり易いと思います。
実存の頽落形態である世人(ダス・マン)についてご興味のある方は以下のnoteをご一読願います。
科学と介護はシリーズになっています。以下のnoteもご一読願います。
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