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虐待の責任は?  虐待論Ⅴ-4


1.構造としての虐待

 abuse/虐待は、虐待した職員の道徳観の欠如や易怒性いどせいなどの性格の問題や専門性の欠如等の個人的な要因によって起因するものではなく、もっと複雑かつ構造的な要因で発生するのだと思います。

 例えば、介護における関係の非対称性(権力性、抑圧性、暴力性)、パノプティコン的権力、パターナリズム、職場で語られるボキャブラリーや言葉遣いなどの言語環境、文化的環境、エビデンス重視の科学的思考(対象化・客体化・数値化)、業務日課至上主義にみられる効率化信仰、組織の閉鎖性などの考え方や感じ方に関わる構造と過酷な過重労働や低賃金、人材不足等の労働に関わる構造人間関係や組織構造、等々の諸構造が密接に組み合わさっているのだと思います。

 虐待は街で起こる、「肩がぶつかったと因縁つけられて、殴り合ってしまった」といういような偶発的な暴力事件ではありません。
 ある会社組織が経営する公的な介護施設で起こるものです。職場で起こるものです。ですから、虐待は十分に社会的な問題であり、組織の問題だと思うのです。

 虐待は社会的な正義に反します。虐待は不正義そのものです。
 朱喜哲ちゅひちょる(哲学者)さんは次のように「公正としての正義」は構造またはシステムであるしています。

  ロールズが構想した「公正としての正義」というものが、属人的なものではなくインフラのように絶えず作動しつづけるべき「仕組み」や「構造」あるいは「システム」であるという点はきわめて重要です。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p228

 上記の朱喜哲さんの上記の一文の「公正としての正義」を「虐待防止」に置き換えると、次のようになります。

 虐待防止というものが、属人的なものではなくインフラのように絶えず作動しつづけるべき「仕組み」や「構造」あるいは「システム」である。

読み替え(祐川)

 この文章は、虐待防止は構造的、システム的なものであることをよく表しているように思われます。

2.構造的不正義としての虐待

 朱喜哲さんは「正義」とは個人の問題ではなく、構造の問題だと指摘しています。

 重要なのは「正義」をめぐる会話の主題となるのは、個々人の内面はもちろん、各人のひとつひとつの行動の是非ではなく、「社会」という単位を支える基礎となる諸制度とその運用をどうするのかという構造のあり方だということです。正義とは個々人の問題ではなく、あくまで構造の問題なのです。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p230

 これを介護にひきつけるなら、「虐待」とは、個人の問題ではなく、あくまで構造の問題だということです。
 そして、介護において実現されるべき「正義」とは「虐待が無い」ということに他ならないと私は思っています。

 次の朱喜哲さんの文章も介護にひきつけて読み替えることができると思います。

 ロールズが提唱する「公正としての正義」の最大のポイントは、わたしたち個々人がいだく価値観や心情、すなわち「優しさ」や「思いやり」とは無関係に、社会という「みなでとりくむ命がけの挑戦」(コーポラティブ・ベンチャー)にとりくむために求められる条件とルールとしての「正義」を構想するのだ、という点でした。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p229,230

 実際に読み替えてみましょう。

 ・・・虐待を無くすという正義の最大のポイントは、個々人がいだく価値観や心情、すなわち「優しさ」や「思いやり」とは無関係に、社会という「みなでとりくむ命がけの挑戦」にとりくむために求められる条件とルールとしての「正義」を構想するのだ・・・

読み替え

 谷川嘉浩(哲学者)さんは『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』で朱喜哲さんの「コーポラティブ・ベンチャー」について次のように表現しています。

「コーポラティブ・ベンチャー」って、実験的日常を共有するヴェンチャーな行動性ですよね。先が見えないけど手探りで誰かと進もうとするという意味で、これはネガティブ・ケイパビリティにつながっていきそうです。

谷川嘉浩+朱喜哲+杉谷和哉 2023『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』さくら舎 p246

 こうすれば、虐待は無くなる、あうすれば虐待を防げる、といったマニュアルがあるわけではありません。
 谷川嘉浩さんの言うように、決まった解決策は見えないけれど、みなと一緒に、手探りで、構造的な虐待防止策を探していこうという挑戦、コーポラティブ・ベンチャーが大切なのです。

3.虐待の責任論

 朱喜哲さんはアイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young アメリカの政治哲学者1949-2006)の構造的不正義に関わる責任論について紹介しています。

 「構造的不正義」はたしかに社会制度によってもたらされるが、しかしそうした不正義が成立し、そして解消されることなく放置されているのは、たんに制度の問題ではなく、そうした状況を受け入れて日々ふるまっている個々人の相互行為の集積の結果であるということです。構造的不正義の成立と未解消について、わたしたちはみな一定の責任を負っています。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p241

 介護における高齢者虐待も構造的不正義です。

 その不正義が解消されることなく、度々起こり、放置されているのは、そうした状況を受け入れて日々ふるまっている職員個々人の相互行為の集積の結果でもあるということです。
 ようするに、直接的な加害者のみならず、その他の職員たちも一定の責任を負っていると言えます。

 さらに、ヤングは、構造的不正義に関わる責任を「過去遡及的な責任」「未来志向的な責任」の二つに区分しています。

 彼女はこうした構造的不正義についての「責任」を、つぎの二種類に区別します。ひとつは過去遡及的な責任であり、もうひとつは未来志向的な責任です。
 前者は、いわば「犯人探し」です。なぜこうした構造的不正義がたち現れ、そして放置されるのか、過去のプロセスを遡って原因を特定し、かかわったひとびとや諸制度にそれぞれ責任を割り当て、その重さを認定するわけです。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p241,242

 「過去遡及的な責任」とは、ようするに犯人、直接的な加害者や制度・仕組みを特定し、なぜ、虐待にまで至ったのかを追求するということでしょう。

 これに対して「未来志向的な責任」とは次のようにものです。

 ・・・未来志向的な「責任」はどうでしょうか。こちらは、過去遡及的な責任の割り当てが実践的に成立しないとしてもなお残っている「わたしたちは、この構造的不正義をもたらし、現存させているプロセスに、なんらかのかたちではかかわっている」という直感に根ざしています。具体的に責任帰属をされ、責められるわけではないのですが、――むしろ、だからこそ――わたしたちは、現状の構造的プロセスを変化させ、不正義を解消していかなければいけないという未来に向けた責任を、みなで分有しているのです。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p242

 介護施設の職員は、虐待を生みだす現状の構造的プロセスを変化させ、不正義を解消していかなければいけないという未来に向けた責任を、みなで分有しているのです。

 このような「未来志向的な責任」は、虐待を個々人の属性ゆえに発生するものと理解していては、論理的には生じません。あくまでも虐待は構造的不正義であるという理解があって初めて導き出される責任なのです。

 虐待事件を受けて虐待防止の研修会が開催されます。
 その研修会は構造的不正義として虐待を理解し、そして、「未来志向的な責任」に基づいて開催されなければならないと思います。

4.被害者の「われわれ」化と未来に向けて

 朱喜哲さんは不正義の被害者は言葉を持てないと言います。

 残酷さにさらされた被害当事者は、それを説明する理論的なことばなどもたないからです。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p196

 自身を表現するためのことばをもたないという剥奪感、そうした境遇で生きるほかないという残酷さは、理論によって説明されるものではありません。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p197

 さらに、朱喜哲さんはローティの次の言葉を紹介しています。

 苦痛は非言語的である。すなわち、苦痛こそが、人間存在がもっているもののなかで、言語を使用しない動物たちとわたしたちを結びつけているものなのである。そのようなわけで、残酷な行為の犠牲者、苦しみを受けているひとびとには、言語によって語りうるものはほとんどない。だから、「被抑圧者の声」なるものや「愚性者の声」なるものは存在しない。」 

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p199

 「苦痛は非言語的である」、胸に突き刺さる言葉です。

 虐待事件を受けて、被害者が固有名をもった、かけがえのない存在であり、「われわれ」の一員であることを復権させなければなりません。
 改めて、被害者の人生、人となり、家族、思いを想起する必要があるでしょう。

 また、虐待事件発生後の対応は「未来に対しての責任」に向けて虐待を存続させる構造的要因を全職員で真摯に問うことが大切です。

  • 加害者が組織内で孤立していなかったか?

  • その加害者は「われわれ」の範囲に入っていたか?それとも、「やつら」だったか?

  • 介護現場の言葉遣い、ボキャブラリーに問題はなかったか?

  • 入居者の身嗜み、環境は整えられているか?

  • 不適切な介護、abuseは無かったか?

  • 虐待を見てみぬふりをしていなかったか?

  • 業務日課至上主義に陥っていいなかったか?   などなど


 虐待について記した他のnoteも併せてご笑覧願います。


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