見出し画像

abuse/虐待論Ⅳ-虐待原因論(3):交差性/バザールとクラブ/双数性/残酷性


1.インターセクショナリティ:intersectionality(交差性)が増幅するabuse/虐待

 社会には、性別、民族、国籍、年齢等の社会的経済的属性に基づいたさまざまな関係性が併存しています。

 「介護する人-介護される人」「お客様-サービス提供者」「若者-年寄り」「男性-女性」「教師-生徒」「管理職-一般職」「医療職-介護職」「生産労働者-再生産労働者」「日本人労働者-外国人労働者」「金持ち-貧乏人」などなど、人は色々な属性を併せもっているのです。

 朱喜哲チュヒチョルさんは、社会には、さまざまな社会的属性を軸として、それぞれの軸に「力」の勾配があり、それらの軸が交差する「インターセクショナリティ(交差性)」があるのだと指摘しています。 

「社会にはさまざまな属性単位の「軸」があり、その両極に優位側(マジョリティ)と劣位側(マイノリティ)がある・・・こうした「軸」は数多く存在し、・・・「人種・民族」「ジェンダー・セクシュアリティ」以外でも、「心身機能の不具合」や「年齢」、さらには「容姿」とか「親の年収」といったものまで考えられます。」
「こうした社会的属性にかかわる多数の「軸」が行き交っており、それぞれの軸ごとに「力」の勾配がはたらいています。近年では、こうした描像を「インターセクショナリティ(交差性)」と呼びます。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p95,96 

 当然、介護職員もこのインターセクショナリティ、交差性のある社会を生きています。
 介護職員は社会経済的には、再生産労働者ですので、生産労働者よりも低評価、低賃金となりがちです、さらに、一般的なサービス業としてみれば、「お客様は神様」といわれるように、お客様優位で、サービス提供者は劣位に置かれやすくなっています。
 でも、介護職員は、「介護者-被介護者」という軸では優位側になっており、「力」を有しているといえます。

 私は、このインターセクショナリティ、つまり社会的属性軸の交差によって、ある社会的軸が他の軸に影響を与えているのではないかと思っています。
 例えば、社会的に低評価で低賃金の介護労働者という属性軸での劣等感が「介護職-入居者」という社会的関係軸での「力」の勾配の傾斜を強める、抑圧性を高める働きがあるのではないでしょうか。

 端的に言えば、「会社で蔑ろにされている男性が、家庭では妻を蔑ろにする。」のと同様に、「社会経済的に劣位に置かれている介護職員が、介護施設では入居者を蔑ろにする」ということがありえるのではないかと危惧しています。 

 朱喜哲さんは、インターセクショナリティという観点から、人は複数のアイデンティティを有している。つまり、アイデンティティーズ(identities)という概念を紹介しています。

 「・・・わたしたちはみな複数の属性を併せもっているのであって、ある軸におけるマイノリティ性にばかり固執していてはマジョリティでもありえることを忘れるべきではありません。」
 「このように複数の軸が行き交う座軸のなかで、たえず自身の現在地ポジションが変わりうるというのが、インターセクショナリティをふまえて、複数形で語られるべきアイデンティティーズのあり方です。」

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)公正>を乗りこなす」太郎次郎社エディタス p98

 私は、朱喜哲さんのいうアイデンティティーズという概念は大切だと思います。

 介護職員は、その都度の現在地ポジションについて自覚的であることが大切です。
 性別、年齢、体力、学歴、国籍、生産関係など、さまざまな属性軸の中での「力」の勾配、権力関係に敏感であるべきだと思うのです。
 そして、ある属性軸が他の属性軸に与える影響についても自覚的であるべきだと思っています。 

2.介護施設はバザールか?それともクラブか?

 朱喜哲さんは、社会には又は個々人の生活には、公共の場(バザール)と、私的な場(クラブ)が別々に存在しており、この公共的なものと私的なものとを統一する理論への願望を捨て去るべきだというリチャード・ローティ(Richard Rorty)[1]の考えを紹介しています。

『生活のための「バザール」で生きていかざるをえない私たちにとって、一日を終えて退避できるような「クラブ」もまた必要なのだ。』
『この比喩がすぐれているのは、、公共空間としてのバザールの「しんどさ」と、私的空間としてのクラブの「危うさ」が、ともに描き出されていることでしょう。』
『・・・場合によっては、差別的な言動や、公共空間ではとても言えないようなことばづかいが飛び交うかもしれない。そういう危うさを秘めた場所であるのがクラブです。」

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p46

 公共的空間・バザールは建前の世界、交渉の世界、競争の世界で「しんどい」世界です。
 これに対して、私的な時空間・クラブでは気心のしれた友人に囲まれ、言いたいことが言えるという魅力がありますが、ドメスティック・バイオレンスなど、権威を持った側の人間の暴力的・支配的なふるまいがみられることもあり、確かに「危うさ」もあります。

 さて、介護施設は私的空間でしょうか?それとも、公的空間でしょうか? 

 介護施設では、「家庭的な施設」「アットホームな施設」など私的空間、クラブであろうとする傾向、志向があります。
 そもそも、介護施設は入居者にとって生活の場、私的空間、クラブです。
 そして、介護労働は再生産労働(家事労働)です。そこでは、食事や排泄、入浴などの家庭内で行われている行為が営まれているのです。
 職員にとって、介護施設は生活の糧を得るための職場という意味では公的な空間・バザールでしょうが、実態としては、家庭内で行われる再生産労働であり、私的空間・クラブといってよいでしょう。

 介護施設が、閉ざされた、アットホームな私的な空間・クラブだからこそ、ドメスティック・バイオレンスのように、権威・権力をもった者、つまり、職員の暴力性が発現しやすくなっているのかもしれません。

 入居者の生活の場である介護施設を公的空間・バザール化しようとすると、どうしても「よそよそしく」なってしまいます。
 それで、介護施設を私的空間・クラブ化しようとするのですが、そこでは、公共的な秩序のタガが外れた何でもありの空間となり、ドメスティック・バイオレンスの危険性が生じてしまうのです。

 介護施設では、このことに十分配慮し、私的空間・クラブと公的空間・バザールを適宜、適切に交代させる工夫が必要でしょう。
 私は、施設の公的な行事や外部の人たちとの交流などが介護施設にバザール性をもたらすものだと思っています。コロナ禍でこのバザール性、公的空間性が施設からなくなってしまい、濃厚なクラブ、私的空間になってしまったことを、危惧しています。

3.夜勤時の双数性と虐待

 虐待事件、特に、介護職員が逮捕されるような虐待事件の犯行は夜勤時に多発しているように思います。
 介護施設の夜勤時は、ワンオペ、一人きりで介護に当たらざるを得ず、強いストレスにさらされるのです。そして、この夜勤時には、被害者と加害者の二人きり、双数になるのです。私は、この双数性が問題なのではないかと思っています。

 この双数性について、考えるときには、ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan1901年~ 1981年)の有名な鏡像理論が参考になります。

Jacques-Marie-Émile Lacan

 生後6ケ月に達した子どもは鏡のなかに自らの姿を認め、喜びの表情を示すといいます。ラカンはここに人間の自我(イメージとしての自我)の起源をみているのです。

 向井雅明[2]さんは鏡像段階のこの現象を心理学とラカンの理論とでは全く逆になっていると言っています。 

「心理学的には内部の自我が外部に自分のイメージを認めるのに対して、ラカンによれば外部のイメージが自我として私をとらえる。自我は外部のイメージを基盤にしているのだ。ラカンはこれを疎外と呼んでいる。なぜなら人間はそれによって外部のイメージに取り込まれ、そのイメージを自分自身だと思いこむからである。」

引用:向井雅明2016年「ラカン入門」ちくま学芸文庫p23

 ラカンによると、人間は、鏡像や身近な母親や兄弟姉妹の像・イメージに自分を同一化して自分自身を作りあげていくらしいのです。
 人は自分自身の全体像を見ることはできませんから、鏡とか、他の人から言われることなどによって、自己のイメージを与えられているのでしょう。母や、兄弟、鏡像などの他者のイメージが、自分のイメージになるのです。

 ならば、自分のイメージは他人のものでもあると言えます。ここに人間のあり方の上で危機的な状況、脆弱性、葛藤性、闘争性などの根源があるのではないでしょうか。
 なにしろ、自分のイメージは他者の持つ外部からのイメージですから、このイメージを巡って「お前か、私か」という、争いが起こる危険性を孕んでいるのです。
 そして、二人だけの関係、つまり双数(dual)ですとその闘いを終わらせることが難しくなります。なにしろ、仲裁者がいませんので決闘(dual)になってしまいます。

※  仏語でdualという言葉には双数という意味と決闘という意味があるそうです。(参照:向井雅明2016年「ラカン入門」ちくま学芸文庫p26)

 大人になると、一般的には、この鏡像段階は象徴秩序(言語・法)によって乗り越えられています。鏡像段階を卒業しているのです。しかし、時々、この鏡像段階の双数(dual:決闘)的関係がぶり返すこともあるようです。

 夜勤などで介護する者とされる者、二人きりの双数(決闘)関係が再露出されるとともに、象徴秩序(法、規則、文化、言語)が夜勤の暗闇に覆い隠されると、この双数的・決闘的関係性が顕在化・先鋭化してしまいます。
 私は、これも介護施設における、特に夜勤時の虐待の原因の一つではないかと思っています。

 介護施設において、象徴秩序をしっかり保つ言葉と文化が必要です。つまり、介助の際の声がけ(言語)と、文化が大切なのです。
 介護関係におけるイメージ的、双数的ではない象徴的関係性、秩序を築くために言葉、文化はとても大切です。

 介護施設における文化の衰えは虐待を招きます。

4.人間の残酷性

⑴ シュクラーの「残酷さ」低減原理

 朱喜哲ちゅひちょるさんは自身の著書「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」第8章 わたしたちの「残酷さ」と政治 という章で、ジュディス・シュクラー[3]の政治思想を紹介しています。

Judith Nisse Shklar

 彼女の「残酷さ」についての考察は虐待を考える上で、とても参考になります。 

 シュクラーは、リベラリズム[4](liberalism)の思想的伝統が、「なにを善とするのかの一致ではなく、なにが悪であるのかについての一致に端を発している」
「身の毛もよだつ恐怖の中から生まれてきた確信、残酷さこそ絶対悪、神や人類への攻撃であるという確信である。」と指摘しています。 

 このような人間の残酷性を基に政治思想を紡ぎ出そうとするのは、彼女がナチスのホロコースト[5]から逃れ、亡命者となったことを原体験として有していることが大きく影響しているのでしょう。 

 さらに、朱喜哲さんはシュクラーの残酷さ、残虐性、残忍性(cruelty)の定義について紹介しています。 

『シュクラー自身の定義では、残酷さとは「より強い者・集団が、みずからの(有形無形の)目的を達成するために、より弱い者・集団に対して身体的な苦痛、そして二次的には感情的な苦痛を故意に与えること」とされています。つまり残酷さは単に身体的な危害を加えるばかりでなく、「屈辱・辱め(humiliation)」を与えることも含みます。相手の自尊心を踏みにじったり、社会集団において恥をかかせたりすることもまた残酷さのひとつだということです。』

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp167

 シュクラーは、残酷さとは、強い者、強い集団が、目的達成のため、弱者などに身体的、精神的苦痛を故意に与えることだとしています。
 そして、「なになには良いことだ」という「善」についての一致はできずとも、避けるべき、この「残酷さ」「悪」についてであれば、ある程度の広範な一致を確認できるはずだとしています。 

 このシュクラーの考えは介護の世界でも通用すると思います。
 さまざまな価値観を持つ人が共存している現代社会においては、「善い」介護についての一致はできなくても、避けるべき「悪い」介護については一致できるということになります。つまり、abuse/虐待は避けるべきだということでは、誰もが一致できるはずです。

 シュクラーの「なによりもまず残酷さを低減せよ(Putting cruelty first)」という原理は介護の世界にも当てはまるのです。

 また、集団の目的を達成するために、弱い者たちに、身体的苦痛を与えるだけではなく、心理的な苦痛、つまり、屈辱・辱めを与えることも、残酷さ、残虐性だとしていることに注目したいです。

 「残酷さ」「残虐性」「残忍性」とは、集団の目的遂行のためであること。そして、身体的苦痛のみならず、心理的苦痛も含まれるということがポイントだと思います。 
 私は、介護施設においては、円滑な業務遂行(業務計画至上主義)という目的のために入居者に対して身体的、心理的苦痛を故意に与えることこそが「残酷さ」「残虐性」「残忍性」なのだと思っています。

(2) 「残酷さ」を直視せよ

 どのような集団にも、集団の維持のために何らかのルール・秩序があり、構成員である個々人にルールを守らせるための「力」が必要となります。

 学校では「教師-生徒」、家庭では「親-子供」、夫婦では「夫-妻」、会社では「上司-部下」、政治では「政治家-国民」など、さまざまな集団ごとに「力」の勾配、つまり、「力」を行使する者と行使される者がおります。これは先に紹介しました、インターセクショナリティ(交差性)ですが、この「力」の行使には、ルール違反者の拘束や、隔離、集団からの排斥といった直接的なものから、名誉の剥奪や屈辱を与えるものまでのバリエーションがあります。 

 介護施設において、組織を維持するためのルールとは業務遂行です。私の言葉で言えば、決められた業務日課をつつがなく遂行することを至上価値とする、「業務計画至上主義」です。 
 このルールを阻害する認知症などの入居者に対し「力」の行使が行われます。もちろん「力」を行使するのは職員です。
 この「力」の行使のバリエーションには、各種身体的拘束、スピーチ・ロック、向精神薬等の投与による行動制限、軟禁、隔離等の直接的なものから、食事を直ぐ下げる、食事制限する、オムツにする、トイレに行かせない、着替えさせない、入浴させない、髪を梳かない、身嗜みを整えない、無視する、放置する等々のさまざまなバリエーションがあります。

 このバリエーションのabuseから虐待へというエスカレーションの極北に暴力的な虐待が位置づけられるのだと思います。 

 朱喜哲さんは、人間のどうしようもない本性である「残酷さ」「残虐性」「残忍性」について、モンテーニュ[6]の言葉を紹介しています。

「まったく同情の気持ちを十分にもっていながら、我々は他人の苦悩を見ると、心の底に、何とも言いようのない・甘いような苦いような・意地の悪い快感を覚えるのである。子供たちまでがそれを感ずるのである。」
『残酷さは、とり去ることができない「われわれの生命の根本的性質」にかかわるものだとモンテーニュは続けます。」

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp172

 「残酷さ」「残虐性」「残忍性」は人の根本的性質で、そこから虐待が生じる・・・それが、リアリティ(reality)・現実なのではないでしょうか。政治学者のシュクラーが人間の「残酷さ」を大前提に政治を思考したのは、政治的現実主義者であったからでしょう。

 「残虐性」が私たちの根本的性質だからこそ、その「残酷さ」を自覚する必要があり、それを忌避しようと努力しなければなりません。介護施設でのabuse/虐待も同じでしょう。
 介護を考え、介護を行っていく際には、人間の「残酷さ」を大前提とする必要があると思います。

 朱喜哲さんも、残酷さを直視することの大切さを説いています。

『さまざまな規模の集団やその時々におけるさまざまな「力」の勾配における「強者」として増幅されてしまいうるみずからの残酷さをも直視しなければなりません。』

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp174

 私たちは、自らの「残酷さ」や「力」の勾配、「力」の行使にもっと敏感になる必要があると思います。そして、生権力、生政治などの権力を考える際に必要な概念を装備し、権力を野放しにしないようにすることが大切だと思います。

 虐待防止のためには教育が大切なのかもしれませんが、その教育には人間の残酷さを踏まえた内容にする必要があると思います。


[1] リチャード・マッケイ・ローティ(Richard McKay Rorty、1931年~ 2007年)は、アメリカ合衆国の哲学者であり、ネオプラグマティズム(Neopragmatism)の代表的思想家。

[2] 向井雅明(1948~)パリ第8大学精神分析学科DEA修了、精神分析家

[3]ジュディス・シュクラー (Judith Nisse Shklar、1928年~1992年)アメリカ合衆国の政治学者。専門は政治哲学、法哲学。

[4]リベラリズムとは、市民革命時代から由来している市民的・経済的自由と民主的な諸制度を要求する思想、立場、運動であり、自由と平等な権利に基づく政治的・道徳的哲学。
 なお、シュクラーは残酷さを回避することを第一義とするリベラリズムを主張した。

[5]ホロコースト(holocaust)とは、ナチスドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺こと。

[6]ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne , 1533年~1592年)は、16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、ヨーロッパの各国に影響を与えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?