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人権教育で虐待は防げるのか 虐待論Ⅴ-2

 abuse/虐待を考えるとき朱喜哲ちゅひちょる(哲学者)さんの哲学はとても参考になります。
 朱喜哲さんの次の著作を基にabuse/虐待をいかに防止するのかについて考えてみたいと思います。
 『<公 正フェアネス>を乗りこなす』太郎次郎社エディタス
 『偶然性・アイロニー・連帯』100分de名著
 『人類の会話のための哲学』よはく舎


1.人権教育

 介護の教科書によく「人間の尊厳を守る」とか「人権を尊重する」とか書かれております。
 また、よく虐待の原因は教育不足だとも言われます。虐待事件が発覚すると、経営者・管理者は陳謝するとともに、今後の対策として「職員教育を徹底します」とコメントすることが多いと思います。この職員教育とは何かと言えば、ようするに人権教育なのではないでしょうか?
 虐待防止の切り札「人権教育」ということです。

 はて? 

 abuse/ 虐待を防ぐために、この人権教育を徹底すればよいのでしょうか。人権教育さえしっかりされていればabuse/ 虐待は起こらないのでしょうか。

 日本では「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」(人権教育・啓発推進法)が2000年11月29日に成立しております。
 この法律では、国と地方公共団体、国民の責務を明らかにし、基本計画の策定と政府による国会への年次報告、国による地方公共団体への人権擁護に関する事業の委託などの方法による財政措置などを定めております。

 また、この法律では人権教育の理念を「国民が、その発達段階に応じ、人権尊重の理念に対する理解を深め、これを体得することができるよう(第3条)」としており、文部科学省でも「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めること」ができるということが、態度や行動にまで現れるようにすることが必要であるとされているのです。

(参照:人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]平成20年3月人権教育の指導方法等に関する調査研究会議

 このような人権教育・啓発推進法があり、学校等で人権教育が行われた結果、日本では人権侵害や人権をないがしろにするようなことは無くなったのかと言えば、そんなことはあるはずがありません。学校でのいじめはなくなる気配がありません。結局、教育に失敗しているのでしょうか。

2.人権ではジェノサイドは防げない

 朱喜哲さんは旧ユーゴスラビアで起こったボスニア紛争(1992年~1995年)におけるジェノサイドに関しての、リチャード・ローティ(アメリカの哲学者)の講演「人権、理性、感情」から次の言葉を紹介しております。

・・・人権という概念は紛争の抑止や解決に役に立っていない・・・

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p75

 人権概念は紛争の抑止や解決に役立たないということは、介護の世界で言えば、人間の尊厳や人権という概念、人権教育は、abuse/虐待の防止に役立たないということになりませんか?

 なぜ、役立たないのでしょうか。

 朱喜哲さんは次のように解説しています。

  ローティが指摘しているのは、「人権」思想とそれを育んだリベラリズムの陥穽である。いくらカントを引き合いに「普遍的価値としての人権」や「人間の尊厳」に訴え、私たちの道徳的義務を論じても、そもそも「私たち」に含まれない存在に対しては、これらの道徳的義務は何の意味も持たない。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p233

 これは、具体的には、どういうことなのでしょうか。実際のボスニア紛争を例にとって、朱喜哲さんは説明しています。

 セルビア人の殺人者たちや強姦者ごうかんしゃたちには、自分たちが人権を侵しているいう意識がないということです。彼らはそれを自分たちと同じ人間にではなく、「ムスリム人」に対して行っているのですから。彼らは非人間的なことをしているわけではなく、ただ本当の人間とにせの人間とを区別しているだけなのです。

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p75

 問題は、人権を有した人間と人権も認められない非‐人間という線引き、つまり非‐人間化(dehumanization)にあるようです。
 そして、この線引きが、本質に基づくものとされた場合、それはもはや訂正不可能なものになってしまうのです。

 本質主義は、この「われわれ/やつら」のあいだに引かれる「線」が、偶然的な性質ではなく本質的な差異に基づくものであり、したがってそれを訂正不可能な境界線であると見なすことである。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p223

3.介護現場に必要な「文化政治」

 朱喜哲さんは、ローティの「文化政治」という概念を紹介しています。

 ローティにとって可能な哲学の営みは「文化政治」として定式化される。「どのような言葉を使うべきか」をめぐる文化政治・・・

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p206

 「文化政治」とは、どのような言葉を使うべきかをめぐってなされる議論を典型とする。・・・白人は黒人を「ニグロ」と呼ぶのをやめるべきだとかわれわれが言うとき、われわれは文化政治を実践している。

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p65

 ・・・自分の配偶者をどのように呼ぶかという問題は、近年よく話題になります。・・・「妻」「パートナー」「奥さん」「同居人」「嫁」「つれあい」などいろいろな表現があります。これらはすべて「同じ人」を指すわけですが、どのことばを選ぶかによって、そこからの会話の帰結は変わりうる。・・・

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p66

 確かに、男性が自分の配偶者を「奥さん」や「嫁」と呼べば、少々男尊女卑的なニュアンスとなって女は家の奥にいて家の家事をやって当たり前という価値観の表明となり、その後は、その表明を受けた会話となるでしょうし、パートナーとしたら男女平等的な価値観を受けた会話になることでしょう。

 さらに、朱喜哲さんはリン・ティレル(Tirrell,L:アメリカの哲学者)の侮蔑的な表現の危険度を判定する基準を次のように紹介しています。

① 「われわれ/やつら」を線引きする機能(insider/outsider function)
② 本質主義(essentialism)
③ 社会的に定着している(social embeddedness)
④ 複数の言語機能を持つ(functional variation feature)
⑤ 行動を喚起する(action-engendering)

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p206

 特に、①と②を合わせることで、非‐人間化(dehumanization)が確立してしまうと言います。

  高齢者介護における、差別やabuse/虐待を考えるとき、介護現場で普段、どのような言葉を使っているのかということ、つまり「文化政治」を考えることが大切なのだと思います。

 日本では2004年に「痴呆」を「認知症」と言葉への言い換えを求める報告が厚生労働省でまとめられ、今では「痴呆」はほぼ死語となっていて、普通は「認知症」という言葉が使われています。
 しかし、介護の現場では、「認知症」ではなく、短縮して「ニンチ」という言葉で表現することもよくあります。私はこの「ニンチ」という言葉には侮蔑的なニュアンスがあると思っています。

「あの人はニンチだから仕方ない。」
「そんなんじゃニンチと変わらないな。」
「あの人、少しニンチはいっているんじゃない?」

 このように、侮蔑的な「ニンチ」という言葉が飛び交っている介護現場もあるのです。

 この「ニンチ」という言葉にも「われわれ/やつら」の線引き機能がありますし、この「ニンチ」は本質主義的、つまり、本人の属性として本人の本質だとされやすいと思います。
 よって、「ニンチ」のような言葉を多用した介護職員の日常会は特定の入居者を「非‐人間化」「やつら化」してしまう可能性があります。

 「ニンチ」や「呆け」 などの侮蔑的言葉を直接用いた明示的差別的表現以外にも、「〇〇はしつこい。」「○○はうるさい。」「○○はわけわからない。」「〇〇は頑固だ。」なども入居者を「非‐人間化」「やつら化」してしまう言説でしょう。 

 言説(ものを言うこと)は行為をもたらしたり、行為を正当化したりする推論的な機能をそなえています。
 日頃から、「文化政治」の観点から、介護現場で語られる言説に耳を傾け、そこに、「非‐人間化」的な言説がないか、もっと敏感になり、「文化政治」について職員同士で語り合ってみることが、abuse/虐待の防止の第一歩ではないでしょうか。 

4.本質主義と優性思想

(1)本質主義の問題点

 朱喜哲さんは、「本質主義」的な人間観、直感、つまり・・・「私たち」が何らかの非歴史的で必然的な「本質」を共有するという直感には問題があると指摘しています。

 本質主義とは定義上、本質を共有する「われわれ」とそこから締め出される外部との境界を固定する。この立場に支えられた倫理では、すべての「人間」に対する倫理的態度と、本質を共有なない「非‐人間」への無慈悲な排斥とが論理的にも倫理的にも両立する。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p232

 つまり、「人間の尊厳を守ろう」とか「人権尊重」とかという理念と、abuse/虐待することは論理的にも倫理的にも両立すると朱喜哲さんは指摘しているのです。

 さらに、朱喜哲さんの次の指摘は人材不足で疲弊している介護現場にも当てまるのではないでしょうか。

 ・・・いざ経済成長に陰りが見え、人びとがまだ見ぬ他者への想像力と責任を持つだけの余裕が失われていくとき、本質主義的な「われわれ」は、そのネガティブな性格。すなわち排他性をむき出しにする。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p234

 慢性的人材不足のために疲弊している介護現場では、「われわれ」職員たちは、「われわれ/やつら」という線引きが強化され、排他性が強められ、当事者(入居者)を非‐人間化していきやすいと思われます。

(2)相模原障害者施設殺傷事件―本質主義と優性思想

 朱喜哲さんは、2016年7月26日に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた戦後最多の犠牲者を数えた大量虐殺事件[1]の加害者の動機について次のように記しています。

 重度の障碍者を「生きるに値しない生命」と断じ、その根絶を企図した「優性思想」が明示的に示されていたのである。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p230

 今日「生きるに値しない生命」という優性思想は、克服されたどころか生命の選別についての医療技術―出生前診断及び人工妊娠中絶や尊厳死など―と結合して、より実生活に深く浸透している。
 
 ここでは「人間」とそうでない存在―「動物」―とのあいだには明確に線を引くことができるという直感が働いている。意識や理性、言語運用能力を有する存在が「人間」であり、そうした「本質」を共有しない存在は人間たり得ないのだと。このような態度の背景にあるのは「本質主義」である。

(引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p231)

 朱喜哲さんは加害者の動機が優性思想にあり、その背景には「本質主義」があり、そしてこの優性思想は現代では医療技術と結びついて実生活に浸透してきていると指摘しているのです。

 確かに、優性思想は現代社会でも蔓延しているといえそうです。

 相模原障害者施設殺傷事件と同じ年の9月には、フリーアナウンサー長谷川豊氏が自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」(公式ブログ「本気論 本音論」2016年9月19日)と記して、炎上しています。

(3)「剥き出しの生」と「やつら」と介護

 相模原障害者施設殺傷事件の加害者は、障害者は「人間としてではなく、動物として生活を過ごし」ていると主張しています。

 私はここに、ジョルジュ・アガンベンの生きること以外のすべての価値をないがしろにされた「剥き出しの生」を想起してしまいます。
 ナチスのホロコーストでは、ユダヤ人は抑留所からアウシュヴィッツに汽車で送られる際に、家畜用の貨物列車数両に男女がすし詰め状態で詰め込まれ、4日間に渡る旅で人々は糞尿にまみれ汚れていったと言います。
 ナチスは意図的にユダヤ人を糞尿まみれにしたのだと思います。糞尿にまみれた者はもはや人間には見えなくなってしまいます。人間ではないので尊厳も人権尊重もあり得なくなっていくのです。

 人権擁護思想が希薄だから、人を動物以下のように扱うのではなく、きちんと介護できず、人間として相応しい姿・身嗜みだしなみ(appearance)になっていない、人間的な環境になっていない場合、当事者(要介護者)は「やつら」化し、ますます、ないがしろにされていくのではないでしょうか。

 この観点から、介護とは人間(要介護者)の尊厳を守る行為といえるかもしれません。その介護で、人間の尊厳を蔑ろにする abuse/虐待が起こるとすれば、それは、きちんとした介護ができていないから、と言えると思います。

5. 人間の「残酷さ」から始めよう

⑴ シュクラーの「残酷さ」低減原理

 朱喜哲さんは自身の著書『<公 正フェアネス>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』第8章 わたしたちの「残酷さ」と政治、という章でジュディス・シュクラー[2]の政治思想を紹介しています。

 彼女の「残酷さ」についての考察は、虐待を考える上でとても参考になります。

 シュクラーは、リベラリズム(liberalism)[3]の思想的伝統が、「なにを善とするのかの一致ではなく、なにが悪であるのかについての一致に端を発している」
 「身の毛もよだつ恐怖の中から生まれてきた確信、残酷さこそ絶対悪、神や人類への攻撃であるという確信である。」と指摘しています。

 このような人間の残酷性を基に政治思想を紡ぎ出そうとするのは、彼女がナチスのホロコースト[4]から逃れ、亡命者となったことを原体験として有していることが大きく影響しているのでしょう。

 さらに、朱喜哲さんはシュクラーの残酷さ、残虐性、残忍性(cruelty)の定義について紹介しています。

 シュクラー自身の定義では、残酷さとは「より強い者・集団が、みずからの(有形無形の)目的を達成するために、より弱い者・集団に対して身体的な苦痛、そして二次的には感情的な苦痛を故意に与えること」とされています。つまり残酷さは単に身体的な危害を加えるばかりでなく、「屈辱・辱め(humiliation)」を与えることも含みます。相手の自尊心を踏みにじったり、社会集団において恥をかかせたりすることもまた残酷さのひとつだということです。

引用:朱喜哲 2023「<公 正フェアネス>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp167

 シュクラーは、「残酷さ」とは、強い者、強い集団が、目的達成のため、弱者などに身体的、精神的苦痛を故意に与えることだとしています。
 そして、「なになには良いことだ」という「善」についての一致はできずとも、避けるべき、この「残酷さ」「悪」についてであれば、ある程度の広範な一致を確認できるはずだとしています。 

 このシュクラーの考えは介護の世界でも通用すると思います。

 さまざまな価値観を持つ人が共存している現代社会においては、「善い」介護についての一致はできなくても、避けるべき「悪い」介護については一致できるということになります。
 つまり、abuse/虐待は避けるべきだということでは、誰もが一致できるはずです。
 シュクラーの「なによりもまず残酷さを低減せよ(Putting cruelty first)」という原理は介護の世界にも当てはまるのです。
 また、集団の目的を達成するために、弱い者たちに、身体的苦痛を与えるだけではなく、心理的な苦痛、つまり、屈辱・辱めを与えることも、残酷さ、残虐性だとしていることにも注目したいです。

 「残酷さ」「残虐性」「残忍性」とは、集団の目的遂行のためであること。そして、身体的苦痛のみならず、心理的苦痛も含まれるということがポイントだと思います。

 私は、介護施設においては、円滑な業務遂行(業務日課至上主義)という目的のために入居者に対して身体的、心理的苦痛を与えることこそが「残酷さ」「残虐性」「残忍性」なのだと思います。

(2)「残酷さ」を直視せよ

 どのような集団にも、集団の維持のために何らかのルール・秩序があり、構成員である個々人にルールを守らせるための「力」が必要となります。

 学校では「教師-生徒」、家庭では「親-子供」、夫婦では「夫-妻」、会社では「上司-部下」、政治では「政治家-国民」など、さまざまな集団ごとに「力」の勾配、つまり、「力」を行使する者と行使される者がおります。これを、インターセクショナリティ(交差性)と言いますが、この「力」の行使には、ルール違反者の拘束や、隔離、集団からの排斥といった直接的なものから、名誉の剥奪や屈辱を与えるものまでのバリエーションがあります。

 介護施設において、組織の目的・ルールは業務遂行です。
 私の言葉で言えば、決められた業務日課をつつがなく遂行することを至上価値とする、「業務日課至上主義」です。

 この目的達成・ルールを阻害する認知症などの入居者に対し「力」の行使が行われます。もちろん「力」を行使するのは職員です。
 この「力」の行使のバリエーションには、各種身体的拘束、スピーチ・ロック、向精神薬等の投与による行動制限、軟禁、隔離等の直接的なものから、食事を直ぐ下げる、食事制限する、オムツにする、トイレに行かせない、着替えさせない、入浴させない、髪を梳かない、身嗜みだしなみを整えない、無視する、放置する等々のさまざまなバリエーションがあります。
 このバリエーションのabuseから虐待へというエスカレーションの極北に暴力的な虐待が位置づけられるのだと思います。

 「残虐性」が私たちの根本的性質だからこそ、その「残酷さ」を自覚する必要があり、それを忌避しようと努力しなければなりません。
 
 介護施設でのabuse/虐待も、この私たちの根本的性質である「残忍さ」によるものと言えるでしょう。
 介護を考え、介護を行っていく際には、人間の「残酷さ」を大前提とする必要があると思います。

 朱喜哲さんも、「残酷さ」を直視することの大切さを説いています。

 さまざまな規模の集団やその時々におけるさまざまな「力」の勾配における「強者」として増幅されてしまいうるみずからの残酷さをも直視しなければなりません。

引用:朱喜哲 2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp174

6.感情教育の可能性

(1)「残酷さ」の自覚と「われわれ」の範囲の拡大

 abuse/虐待の抑止、防止については、人間の「残酷さ」を大前提とし、残酷な状況に置かれている人たちへの共感を基本に考えていく必要があるのではないでしょうか。

 どうすれば私たちは「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのか。共感を育むことができるのか。

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p83

 簡単に言えば、自ら加害者となりえるという気づきがなければ、自らの「残酷さ」を抑制できなくなるということだと思います。
 また、いくら人間の尊厳、人権擁護をうたったとしても、その人間、つまり、「われわれ」の範疇に入らない、入りづらい人々がいればジェノサイドやabuse/虐待の抑止にはならないことをみてきました。

 やはり、問題は、自らの「残酷さ」の無自覚と、本質主義による「われわれ/やつら」の線引きにあるのです。

 人間の尊厳、人権擁護、人権教育が、abuse/虐待の抑止に無力であるとすれば、どうしたらよいのか。

 朱喜哲さんは、ローティのいう「感情教育」(sentimental education)が大切だとしています。

 では、本質主義を斥けた上でなお人権を擁護し、ジェノサイドに抗するためには何ができるというのだろうか。ローティの回答はシンプルである。私たちにできることは「感情教育」しかない。感情教育とは、物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯を育む。

 すぐれたフィクションやルポルタージュは、その時点で「われわれ」に含まれない対象の感情や痛みに対してわれわれが共感しうるということを説得するのではなく、テキストを通じてただ共感を育む。本質主義が何らかの論証が必要なのに対して、感情教育は情緒に訴えることで目的を果たすのである。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p235

  ローティは理論ではなく、感情に訴える文芸や報道・ルポルタージュ等による共感の醸成を「感情教育」としています。

  われわれを拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない。

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p86

 そして、「われわれ」の拡張には二つの方向性、要素があるのだと朱喜哲さんは、指摘しています。

 「われわれ」を拡張するとは、第一には、残酷さのなかにある被害者に共感することによって実践されるものでした。しかし同時に、加害者もまたわれわれと同類だと気づくことによっても、「われわれ」は拡張されるのです。

引用:朱喜哲2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p96

 「われわれ」の拡張は、被害者に向かってと加害者に向かっての二方向があるということを忘れてはいけないと思います。

(2)感情教育と単称名辞の置換

 朱喜哲さんは感情教育を次のように紹介しています。

 感情教育とは、物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯をはぐくむ、このように育まれる「共感」にそれ以上の根拠はなく、「理性」を本質的に共有し、合理的であるから共感可能になるわけではない。・・・すぐれたフィクションやルポルタージュは、その時点で「われわれ」に含まれない対象の感情や痛みに対してわれわれが共感しうるということを説得するのではなく、テキストを通じてただ共感を育む。本質主義が何ら論証が必要なのに対して、感情教育は情緒に訴えることで目的を果たすのである。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p235

 感情教育のイメージはわかるのですが、それでは具体的な方法はどうすればよいのでしょうか?

 朱喜哲さんは、ロバート・ブランダム(Robert Boyce Brandom, アメリカの哲学者1950年~ )の推論主義[5]、単称名辞[6](singular term)論を基に、感情教育の方法論をつまびらかにしています。

 感情教育は、現在「われわれ」に含まれる対象者に適用される情緒的な文の単称名辞部分に対して新たな別の単称名辞が置換可能になることである、と捉えることができる。そのため、単称名辞の運用の拡大についての言語的なメカニズムの明晰化を通じて、感情教育そのものの明示化を図ることが期待できるだろう。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p238

 単称名辞(特定の個体を表現する概念)の最たるものは、個体を指す名辞であり、山田太郎というような固有名詞でしょう。この固有名詞が情緒的な文章において置き換え可能となるメカニズムを利用するということだと思います。

 ブランダムは、単称名辞を推論実践から説明する上で「置換substitution」という操作に焦点を当てる。単称名辞を含む文未満表現同士が「同じ意味を持つ」のはそれらが置換可能であるとき、つまり、置換した場合に推論において果たす役割に変化がないときである。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p238

 例えば、「私たち」は喜んでいる。という文章の「私たち」に固有名詞の「山田太郎さん」を置換しても意味が通じます。
 このことで、「山田太郎」さんは「私たち」の一員とも考えられ、「私たち」の範囲が拡大する可能性を得ます。
 ある意味、感情教育とは固有の名前を持った人間の日々の情緒、気持ちを表現する会話・言説を通して教育していくものなのかもしれません。

 そして、朱喜哲さんは感情教育のポイントとして次の三つを上げています。

①漠然としている共感を言説的に明晰化するための教育が大切なこと。
②さらに、「われわれ」から締め出されている対象について、属性名ではなく、個々の対象を識別する単称名辞を知らねばならない。他者を属性によって包括せず、個別の対象を指示する名辞(典型的には固有名)を学ぶ必要がある。
③そして、「われわれ」から除外された属性で一括りにされがちな個々の存在者について、一つの単称名辞では不十分で、複数の豊富な表現を学ばなければならない。

参照・引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p242

 まずは、共感を言語化する教育が大切で、その言語化された文章に入居者や要介護者などの属性名ではなく、山田太郎という固有名を置き換えることを学び、その置き換えを山田太郎だけではなく山内明子や斎藤恵子などの多くの固有名辞に置き換えられるようにすることが感情教育のポイントということになるということらしいです。

 この固有名を持つ人間存在は、池田喬(哲学者)さんの次の文章を参照すれば、「私とは何か」という問いではなく「私とは誰か」という問いに関わる、実存ということができるような気がします。

 実存の関心の的としても存在は、「私とは何か」と抽象的な本質論のかたちで問われるのではなく、「(あなたや彼/彼女とは異なるこの)私とは誰か」と、人称性を消去せずに具体的に問われる。実存には「それぞれ私のものである」という各自性が含まれるのだ、と。

池田喬 2021「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」p106

 感情教育の基本に、人間を実存として捉えることが必要なのではないでしょうか。

(3)「津久井やまゆり園」のジェノサイド

 朱喜哲さんは相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きたジェノサイドを例に説明しています。

 この事件は、本質主義的な直感をもって重度障碍者を非人間化し、優性思想によってその根絶を企図したものであった。したがって、たんに殺傷事件として問うのでは不十分であり、非人間化された被害者たちをふたたび「われわれ」のうちに回復されなければならない。それはまさに感情教育の範疇である。そして、感情教育とはボキャブラリーのレベルにおいて「われわれ」に適用される情緒的、規範的な述語をともなう単称名辞についての実質置換推論を学習することであった。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p243

 abuse/虐待を抑止、防止するための感情教育においては、名前をもった入居者の個々人の虐待事例に学ぶことが必要不可欠なのではないでしょうか。

 被害者及び加害者の個々の生い立ち、虐待に至るまでの経緯、その事件による被害者及び加害者の苦悩、苦痛、思い、感情などをしっかりと明晰に言語化・表現し、話合い共感することが大切だと思います。

 このような感情教育により、自分も加害者になりえたこと、残酷さのなかにある被害者に共感することを通して「われわれ」の範囲を地道に拡大していくことが求められているのです。

 また、小説、ルポルタージュ、映画、絵画等にも触れることも感情教育になるかと思います。


[1] 『相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月26日)の津久井やまゆり園で入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件の加害者、植松聖はしゃべれない入居者を選別し殺傷したと言われている。加害者本人は、「国の負担を減らすため、意思疎通を取れない人間は安楽死させるべきだ」と述べています。「今の日本の法律では人を殺したら刑罰を受けなければならないのは分かっているが、自分は権力者に守られているので死刑にはならない」という趣旨の発言のほか、「事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった」という趣旨の供述もしている。「事件を起こしたのは不幸を減らすため」「(障害者を)殺害した自分は救世主だ」「(犯行は)日本のため」などとも供述した。』

引用・参照:Wikipedia相模原障害者施設殺傷事件

[2] ジュディス・シュクラー (Judith Nisse Shklar、1928年~1992年)アメリカ合衆国の政治学者。専門は政治哲学、法哲学

[3] リベラリズムとは、市民革命時代から由来している市民的・経済的自由と民主的な諸制度を要求する思想、立場、運動であり、自由と平等な権利に基づく政治的・道徳的哲学。
 なお、シュクラーは残酷さを回避することを第一義とするリベラリズムを主張した。

[4] ホロコースト(holocaust)とは、ナチスドイツ政権とその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺こと。

[5] 推論主義とは、「言葉の意味は推論で果たす役割によって規定される」とする、言語哲学における立場。

[6] 単称名辞は、特定の個体を表現する概念のことです。一般的に、単独名辞、単称名辞、または単称とも呼ばれます。これは、一つの個体だけを表現する意味を持ち、一般概念(多数の個体を表現する意味)とは異なります。

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