なぜインスタに飽きてきたのか

私は高校時代からInstagramを使っていた。

日本国内にいた若者としては、結構珍しい方じゃないかと思う。

現に、私以外に当時高校の同級生でアカウントを持っていたのは男女合わせて2、3人といったところだった(1人は海外のミュージカルに出られている女優のファンで、もう1人はレーシング好きの男の子だったと思う)。

日本のテレビや雑誌などのメディア、タレントたちが「インスタインスタ」と呪文のように口をパクパクさせる随分前から私はアカウントを作って何気ない写真をポストしていた。

しかし、最近そのインスタにどうも飽きてしまったような気がする。なんでだろう。なぜ私はインスタに飽きてしまったのだろう。

一言に「飽きた」とは言っても、24時間で投稿が消えるストーリー機能は未だに使っている(まだフレッシュな感じがするから)。一方、24時間経っても古傷以上に永遠に消えない魔のメイン・プラットフォーム、そこには頻繁に写真を載っけなくなった。

私がインスタを始めたとき、モチベーションはこんな感じ。

① 海外のスターやアーティストの日常が見られる
② 海外の推してる俳優たちと繋がることができる(コメントやDMを通し たりハッシュタグを付けて)
③ 思い出に残るもの(写真、言葉)を日記帳の代わりにポストする

私は中学時代から海外の映画やドラマ、ミュージカルなどに強い関心を寄せていたので、Tumblerの人気がまだ根強かっただろう時期にInstagramを使い始めたアーティストたちの細波に乗り、自らもアカウントを開設した。

そこには、「あっち側だった人たちが、こっち側にいる!」というような漠然とした驚くべき感動があった。

Twitterよりも写真を気軽にポストできる、というのは当時はとっても画期的な機能(プラットフォーム)だったに違いない。

ドラマで見た俳優たちが相互フォローし合い、コメントをしていたり、撮影風景の写真を見せてくれたり。パーソナルな空間を覗き見させてもらっているような嬉しさと、もしかしたら背徳的な気持ちもあったのかもしれない。

②について、面白い話がある。ブロードウェイでミュージカルを観た日にある公演のパンフレット(リーフレットのようなもの)の写真と感想をポストした。すると、数時間後にはその舞台に出演されていた若手俳優の方からイイねがなされた。驚いた私は嬉しさと興奮の入り混じった気分で「え!びっくり!(語彙力)」というようなことを呟いた(確かこれもポストしたかな)。すると、「あはは、見にきてくれてありがとうね!」というような返信の通知がやってきた。そう、あのイイね!をしてくれたブロードウェイ俳優からだ。

私がインスタをやっていて良かった、と思った瞬間である。

ファンの声が届く、自らDMなどを送らなくとも、私のポストを見て励まされてる俳優がいる、というのが何だか嬉しかったし、気軽に反応してくれる海外アーティストって友達みたいでいいなと思った。

また、Twitterとは異なりネガティブな言葉が飛んでいなかったのもインスタの良いところだったかもしれない。文章の文字制限もないしね。

③は文字通りその日の思い出、忘れたくない瞬間などを写真に収めてポストするだけ。ただでさえ当時はインスタをやっている友達がほとんどいなかったし、フォロワー数なんか全く眼中になく、自身の記録として写真を載っけていた。個人的な空間だけど、その写真にリアクションする海外の人たちが新鮮で、楽しかった。意図せず世界のどこかにいる誰かと繋がる、そんな気恥ずかしさと感動があった。

そして、現在。やっていない人の方が少ないくらい、日本でも多くの友人たち、俳優たち、若者、若者ではない成熟した大人たちがインスタを始めた。

それは「自分を売り込むためのプラットフォーム」や「企業のPR窓口」となり、資本やエゴの匂いが香り立つようになった。お世辞にも、良い香りとは言えない。安っぽい香水のムワッとするあの感じ、とでも言おうか。

なぜ私はインスタに飽きてきたのか。おそらく、こういうことだろう。

① フォロワーに知り合いが増えてしまい、よりパーソナルなことをポストするようになり(彼らと共通の話題:卒業式写真など)、鍵垢にした。

つまり、表現が不自由になった。垢の他人には見られないようなアカウントになり、知らない誰かと価値観や趣味を共有する喜びが消えていった。

② 知り合いとは別にそんな繋がりたくはなかった(通っている美容院の美容師さん、高校や大学の先輩後輩)。ポストする前に客観的に考えて、ポストすることを止める自分がいる。
③ 「私の人生のキラキラ・ライフを見て☆」というような他人の自己満ポスト、フィルターを使ったギラギラのセルフィーショットに辟易してしまった。

今でも、海外だけでなく国内の作家やアーティストたちにごくたまにコメントをしたり、「本当に感動した」作品を観た後は俳優にDMを送ったりする。

それは、何かを作っている人に感想や声を届けたい、という応援するような純粋な動機からである。

1年以上前だったろうか、日本ではなかなか作られないだろう、宗教と自己愛、queer的要素の入ったアメリカ映画を鑑賞した後、そこに出られていた一人の女優へDMを送った。返事などは全く期待せず、「あなたの演技に感動しました。次の作品も楽しみにしています。お身体には気を付けて。日本から応援しています」というような内容だった。

すると、数時間たちフランス時間でいうところの朝だったかな?ピコンとインスタから通知があり、覗いてみると彼女からの返信だった。

「ありがとう」とそこにはあり、私は「返信をもらえるとは思っていなかった。信じられない」と返信した。

すぐに、またピコン。

「あはは」との返信。

その後何度かやり取りをして、誕生日が近かったこともあり、私は彼女に「まるでバースデイ・プレゼントが早めに来たみたい」とメッセージを送った。

今、モデル出身の彼女はイーサン・ホークやユアン・マクレガーと共演して、遅咲きながらスターダムを駆け上がっている。

こういう風に地球の離れたどこかにいる人に声を届けられるプラットフォーム、というのは最高だ。日本の芸能人だと事務所の縛りなどがあり、当たり障りのないことを投稿するか、番宣内容を載っけるか、っていうのが多いのでつまらないなと思う。

一方、海外俳優や歌手などは日常の風景をあっけらかんとカジュアルにポストしてくれるし、その人がどういう考え方をして、どういう人たちと付き合っているのか(友人など)というのが見えてくる。

例えば、日本の俳優ではLGBTアライ、あるいは当事者である(と公言している)人がほとんどいない。けれど、海外俳優はアライとしてパレードに参加したり、共に声をあげたり、恋人が同性だったり、友人がゲイだったりするのを当たり前にポストする。それが、彼らの普通だからだ。

私は正直自分がストレートなのか、そうでないのか判然としない部分があって、彼らの日常やポスト、出演する作品に救われている部分があるんだと思う。

だから、自身の日常だけでなく何か価値観や考え方、おすすめの本や政治的な信条などをポストする海外セレブリティー、アーティストたちのインスタは(人にもよるが)真のインフルエンサーだと思う。

「こういう世界もあるんだ」というのを教えてくれる映画のような窓口が私にとってのInstagramであったから、商材やサービスの宣伝材料として使われしまっている現状には何だかがっかりしたのと、疲弊してしまったのかもしれない。

あと、そこまで友人たちや知り合いのニュースに興味がないんだと思う。

だって、それは私の人生とは全く関係ないのだから。

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