[読書メモ] 歴史思考 / 深井龍之介
世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考
人気コンテンツCOTEN RADIOのメインスピーカーである深井龍之介による初の書籍。COTEN RADIOでも紹介された代表的な偉人をピックアップして紹介しながら、メタ認知(自分自身を俯瞰的に見る能力)や歴史思考(歴史を知ることによるメタ認知)の手法を説き明かしている。何事も自分自身で選択しなければならない現代で、悩んでいる自分自身を俯瞰的に捉えることを助ける。
スーパースターも凡人だった
歴史上の偉人は本人だけにスポットライトが当てられがちだが、実際は偉人を取り巻く関係者たちが偉業に関わる多大な寄与をしている。本書でも紹介されるヘレン・ケラーを支えたアン・サリバンが好例。
現代の企業家の中には、現在という一時的な意味では「直接」世界を変えた人物は多数いるが、長いスパンで見たときに「直接」世界を変えることができたかどうかは未来になって振り返らないと判らない。また、結果的に企業家から影響された別の誰かが、巡り巡って世界を変えることも起こりうる。
「優越感」と「劣等感」は非常に短い期間で比べたときに抱きやすい感情と言える。学生時代であれば、他人と比較して勉強ができる・できない、スポーツができる・できない、モテる・モテない等の優越感・劣等感がこれにあたる。社会人になってもこの傾向は変わらず、他人と比較して仕事ができる・できない、出世する・しない等も全て短い期間での比較。
『世界はフムフムで満ちている / 金井真紀』の「人生、死ぬまで暫定だから」にも通じる話。死ぬまでに後悔の無いように自分の人生を生き抜けば、自分だけの優越感に浸ることはできると思う。
「優越感」「劣等感」を人生の途中段階で持つ必要がないことと同じで、「成功」「失敗」を人生の途中段階で持つ必要はない。歴史上の偉人が遅咲きなのは、人生の知識や経験、それによって培われるスキルを溜め込む期間が長ければ長いほど最後に爆発するエネルギーが強いということかもしれない。
誰にでも、歴史上の偉人に影響を与える人物になる可能性があるということ。自分自身にも影響を与えた人物や言葉があるから、同じように自分自身が他社に影響を与える可能性はある。一方で、影響を与えたかどうかは影響を与えられた側が認めることであって、与えた側が認めることではないことに注意したい。
学生時代、祖父が旧友としていた会話の中で「フィリピンでマラリアに罹ったから日本に帰国できた」という話が断片的に聞こえた記憶がある。戦争でもし祖父が亡くなっていたら自分は存在していなかったと考えると、実感は湧かないながらも恐ろしい気分になる。
歴史の長いスパンで考えると、短期と長期でマイナスとプラスが何度も入れ替わることは起こりうる。一人の人生の短いスパンにおいても人生の短期でマイナスだった出来事が、人生の中長期でプラスに作用することはしばしば起こる。重い病気を経験したことで、特定の感覚や知識を得られたりするといった例がこれにあたる。
現代の経済成長の起点となった産業革命と資本主義が、王権弱小国にアドバンテージがあったというところが興味深い。弱点を持つことが必ずしも悪いことではなく、弱みが別の強みを誘発することは良くある。目が見えない人が他の知覚や第六感の覚醒を起こすのもこれに近いのかもしれない。
「常識」は不変であるという誤認識を改めて考えさせられる。「常識」が成立した過程を知らずに「常識」としていることは多い。教育の分野でも、生活力・学力の平均値を底上げするという点ではこれまでの「常識(学校教育)」は十分に機能していたが、ある程度の底上げが一般化された段階までくると次は別の「常識(教育)」が求められつつある。
会社経営においては、利益を上げられる会社が評価される「常識」から、社会価値を提供できる会社が評価される「常識」が加わりつつある。このような「常識」の変化は、情報化社会になって加速度が増しているようにも感じる。
「常識」の変化する速度が上がった時に、人間のフィジカルとメンタルが適応し続けることができるのか不安でもある。
アリストテレスのニコマコス倫理学を学習した際に、紀元前の哲学者が現代人と同様な人類課題に対して、現代にも十分に通用する思考のフレームワークを作り上げていたことに非常に衝撃を受けた。
これからの時代はまさに「生き方を自分で決めなければいけない」時代。旧来の学校教育では、何もない状態から生き方を自分で探したり、作り上げたりする訓練をする教科や科目が無いので、大抵は大人になってから訓練することになる。そのため、自分に合った生き方を探すのにとても苦労するケースが少なくない。
まさに、古代ギリシアの哲学者の書籍を学習したときの感動と同じ。
最新のテクノロジーやシステムを知るには最新の情報を常に追い続けることで事が足りるが、思考能力そのものは最新のロジカルシンキングでは非常に偏った知識になる。最新のロジカルシンキングは、資本主義の利益追求型の社会をベースにしたものが多く、コストパフォーマンス(コスパ)やタイムパフォーマンス(タイパ)に特化した記述が目立つ。コスパやタイパが良いことが優れた行動規範という常識は今後変化する可能性が高い。
これに対して、古典のロジカルシンキングは人間の持つプリミティブ(根源的)な部分にアプローチしているので、常識の変化に依存しない普遍的な知識と教養が身につく。
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