北野武の『首』の公開を、首を長くして待ちたくなる話。
東京国際映画祭にて、北野武の新作にして最後の監督作とも噂される『首』を鑑賞してきた。
織田信長と明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康を中心人物に据え、日本における最高のエンターテイメントと言えよう"戦国時代"を、北野流にアレンジした一作。アウトレイジ版時代劇とも言われる本作は、その名に恥じぬ粋なバイオレンス描写と、独特の台詞回しのオンパレード。北野武自身の年齢は感じざるを得ないものの、芸人ではなく役者としてスクリーンに映る姿はやはりどこかカリスマ性があり、観客を惹きつける魅力が健在である。
ビートたけしが作る時代劇だからな~などと、軽い気持ちで観に行ったが、その全容は決しておふざけではない、ウィットに富んだ、日本映画の源流とも言うべき皮肉とユーモア満載の娯楽大作であった。
今さらこんな若造が映画監督北野武を評価するなんて、おこがましいにも程があることは重々承知しているが、一緒に作品を観に行った同期たちは、これまでたけしの映画を観たことがなかったという。
そんなこんなで、これはわたしが北野映画について執筆することも需要があるのではないかと思い、今回は珍しく邦画のやかましい映画語りとしてみよう。
北野映画入門としてもぴったりではないかと思う『首』
その素晴らしさを存分に語らせておくんなまし。
「首」の物語
本作の主役は誰?と聞かれると、どうにも言葉に詰まる。
戦国の群像劇、と言ってしまえばそれまでだが、豪華な役者陣を揃えたこともあり、本作の主役は1人に定められない。
だがそんなキャスティング以上に秀逸なのは、何といってもそのタイトルだ。漢字一文字、シンプルだが誰もがドキッとしてしまう『首』。そう、本作は信長失脚の物語でも、明智謀反の物語でも、秀吉天下人の物語でもなく、「首」の物語なのだ。
戦国の世、天下統一はそれすなわち権力者の「首」を取ること。
「首」さえ取れば、何人も大出世であり、この世のすべてを手にすると表現しても過言ではない時代だったのだろう。誰もが「首」を恐れ、「首」に生き、「首」に死ぬ。残虐だが、それが時代の正義であり、ルールであり、我々の歴史である。勇ましい戦国武将は、あくまで物語の引き立て役でしかなく、官僚も武士も農民も、すべてが等しく恐れる「首」こそが物語を先導していく作りは、本作最大の見どころとも言えるだろう。「首」が落ちることで場面が展開し、「首」が守られることで幕を引く。その繰り返しが実に美しい。
それゆえ、時代劇とは銘打っているものの、本作にはどこか時代に縛られず自分事として作品を鑑賞できる視点の置き所がある。特定の偉人を見るドラマではなく、不変的な時代の象徴を見るドラマとでも言おうか。これはとても新鮮な体験だった。自分たちはこの歴史の上に生きているんだよなぁ。今の時代に置き換えたら「首切り」は何に相当するものなのかなぁ。そんなぼんやりとした恐怖と好奇心を、映画のストーリーに呼応して感じ続けられるのだ。
とはいえ小難しい時代だなんだと言わずとも、アクション映画、バイオレンス映画、サムライ映画として圧倒的な面白さがあることは、さすが世界の北野と言わざるを得ないだろう。殺陣は日本が誇る最高のエンターテイメントであり、マフィアや闇の売人とは違う、日本のヤクザらしさは、どれだけ優れたハリウッドスターであろうとも演じ切ることはできまい。「首」を懸けた知力と武力の衝突、その危ない興奮をCGではなく人の手で、嫌らしいほど醜く泥臭く描くさまは、往年の黒澤明映画から通ずる我が国の凄みだ。
その「首」ひとつで国が動くという面白さを、ぜひ本作から味わってほしい。
「忠誠」と「衆道」
歴史は常に新しく塗り替えられるものである。
それまで正しいとされていた通説も、新たな歴史的遺産が発見されれば、瞬く間に一新されるものだ。その点、本作は最新情報が満載の時代劇と言えよう。
我々が小学生の頃から習う戦国の一連としては、信長の台頭⇒光秀の裏切り⇒秀吉の下克上⇒家康の天下統一、が大枠である。一方、それぞれの転換期に関する説明はぼやっとしたまま「そういうもん」として教えられてしまった学生が数多いるのではないだろうか。そうしてわたしも当時日本史が嫌いになった生徒のひとりである。笑
だが、そんなわたしでも本作を面白いと思えた理由は、それぞれの大きな転換期をナレーションベースで「そういうもん」とまとめず、転換に至る理由を描くことが作品のメインとなっているところだ。信長が台頭した背景、光秀が君主を裏切るに至る心情、秀吉が下克上を果たす必然性、家康が天下を統一できる理由、そうした教科書の一文と一文を繋げるかのような物語が鮮やかに動き出されえることによって、よく知られた物語にも飽きる暇がない。
中でも特筆すべきは、登場人物たちの「忠誠」と「衆道」の描写だ。これは数ある時代劇の中にまったく新しい風を吹き込んだと言っていいだろう。ラブとしての忠誠や、天下への忠誠や、自己への忠誠など、これが実に様々。信長には人を惹きつけるカリスマ性があった、なんて、忠誠を説明づける理由になんかならない。従える家臣たちには、みな表には出さない「真の忠誠」がそこにあり、その水面下での強かな争いは、馬に乗って暴れる戦以上に目を見張るものがある。
加えてその「忠誠」の下火として密かに巻き起こるは「衆道」のそれである。「衆道」とは、女人禁制に近い環境下における男性同士の男色である。これは何も北野武の脚色ではなく、最新の歴史研究に基づけば、百姓上がりの秀吉以外、ほぼ全ての武将たちが「衆道」を格式高い趣味として重んじていた、という説まで唱えられているようだ。甲冑と日本刀がぶつかり合う戦の裏で、男同士の激しい心情バトルも繰り広げられていたとはまったく驚きだが、改めて歴史の一偏を深く観察すれば、明らかにこの物語のほうが辻褄が合うと思わざるを得ない。
こんなこともあったのかな。いや、きっとこうだったよね。これしか考えられないよね。物語を追っていく中で、きっと皆さんもこんな感情の変化を楽しめるだろう。そこには救いようのない切なさや、見るも無残な残酷さも秘めるわけだが、そのやるせない思いが、作品全体になんとも言えない哀愁さを醸し出している。
「芸人って、本当に色んなことを知ってるよなぁ」と、芸に生きる者たちの知識の深さと、引き出しの多さにも、改めて感動できるはずである。
「皮肉」と「ユーモア」
さて、ここまでベタ褒めの本作『首』だが、監督・脚本・編集、すべてを指揮する北野武を、わたしは決して奇才や天才だとは思っていない。その反面、骨の髄まで人を笑わせたいという欲にまみれた芸人、つまり世界最高峰の皮肉とユーモアのセンスを併せ持った映画監督だと思っている。
北野映画には、過去どの作品を観ても「こんな映画観て何かを真面目に考えるなんて馬鹿じゃねえの笑」と言わんばかりの皮肉さが込められている気がしてならない。だが、「馬鹿なことを真面目にやるから面白いんだよな笑」というユーモアが見え隠れすることもまた事実。この「皮肉」と「ユーモア」の追いかけっこが、世界中で多くのファンを生み出している所以ではないかと、わたしは思うのだ。もちろんこれを「緩急」と呼ぶことも、「ギャップ」などと表すことも可能だが、そんな綺麗な棲み分けではなく、スクリーンの中ではもっともっとごちゃまぜに、皮肉とユーモアが常に共存し合って、絡み合って、観客のいる座席まで滲み出ている様子が見て取れる。それはまさに全盛期のツービートが送る漫才のごとく、次々と伝播する毒と優しさの連続した手のひら返しの面白さと言えるだろう。
顔の良い役者に突然変顔をさせるだとか、時代にそぐわない無鉄砲な言葉遣いで笑いを誘うとか、そういうメタ的な緩急をつけたギャグではなく、物語の内側から徐々に湧き出てくるコメディ。役者同士の掛け合いから育まれる自然発生的な皮肉とユーモア。本作にはその魅力がふんだんに詰まっている。
加えて、戦国舞台の大作にも関わらず、刀と刀が鍔迫り合う戦のシーンが少ないことも大変興味深い。これは単にたけし本人の年齢による限界という側面もあるかもしれないが、それ以上に「戦をかっこよく描かない」という徹底した彼の美学を追求した形とも捉えられる。それは自身が役者として出演した『戦場のメリークリスマス』にはじまり、『菊次郎の夏』や『アウトレイジ』でも、わたしは同様の感想を抱いている。喧嘩や争いに揉まれる「人」についてはとことん美しく描くが、戦いそれ自体は美談として語らない。それでも起こる戦争は、全部まるっと皮肉とユーモアでまとめ上げてしまうという、その手法はまさに天下一品だ。
80歳も目前に控えた北野武、残念ながら日本を代表する映画監督とわたしは言えない。北野武という名前を使っても、その実体は漫才師のビートたけしその人であり、撮る映画もあくまで彼の芸の延長に過ぎないと思っているからだ。
だが、映画祭という舞台でひとたび上映が始まれば、何人も座席に座りそわそわと期待に胸を膨らませ、ある場面ではハッと息を呑む音が一致し、またある場面では劇場全体にどっと笑いが起こる。この奇跡を生み出せる力は本当に凄いものだと思う。我々のような令和を生きる若者から見れば、ビートたけしなんてテレビの中でふざけているおじさんとしか映らないかもしれないが、彼は紛れもなく舞台に立つ人間で、芸を披露する人間なのだなぁと、作品の節々からその魅力を感じ取れるはずだ。その意味において、やはり監督する人というより、魅せる人なのだなと、改めて感じることができる。
さて、黒澤明が生前「『七人の侍』と並ぶ傑作になるはずだ」と期待した本作は、30年の企画構想を経て、第76回カンヌ国際映画祭でのスタンディングオベーションへと導いた。まったくこの逆輸入的な上映も皮肉でしかないが、いま、ようやくホームに帰ってきた本作を、我々日本人が評価せずに誰が愛せるというのか。
真新しくも、変わらぬ皮肉とユーモアたっぷりの北野流時代劇、11月23日の公開まで、首を長くして待っていようではないか。
切れ味の良さは、抜群である。
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