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【映画のある生活】なぜ、「人生のメリーゴーランド」という題名なのかを考える。(「ハウルの動く城」のボクなりの解釈)

今日は映画の話だが
音楽を交えて考えていきたい。

文字列ゆえに
音を表現出来ないのだが
あなた自身の中で
何か響いてくれたら

ボクは嬉しい。


まえがき


アニメ映画「ハウルの動く城」の
音楽について
ちょっと考えてみようかなと。

今日は吹奏楽の練習があり
その中で「人生のメリーゴーランド」を
演奏した。

個人的には学生時代
先輩たちが弦楽アンサンブルに
ボクを混ぜてくれた想い出の曲。

文化祭でも演奏したかったので
同級生たちがジブリやりたいっていう
希望を叶えるべく、自分で
ジブリメドレーを編曲した。

その最後には
ハウルを取り入れ
「人生のメリーゴーランド」から
「世界の約束」へ繋いで結んだ。

ご存知のとおり映画では
本編最後に「世界の約束」が流れ
エンドロールが始まり
途中で「人生のメリーゴーランド」に
切り替わる。ボクの書いたメドレーとは
逆の形である。

物語としてはめでたしめでたしで
しっとり終わりつつ
(個人的にはメドレーも
そのまましっとり終わらせたかった)
アップ・テンポのワルツが流れて
高揚しながら幕を閉じている。

さて閑話休題。

今日の練習では
「どうして『人生のメリーゴーランド』と
いう題名なんだろうね。」
という話になった。

ちょっとボクなりに
考えてみようと思う。

一般的なジブリのイメージ


ジブリ作品のイメージは
一般的には
金曜ロードショーでいつの間にか
いつもやってる映画、
というところだと思う。

もっと言えば
宮崎駿氏が監督した映画、
というイメージだろう。

楽曲は久石譲氏が担当している、
というのもそのイメージの
セットであると思っている。

ボク個人としては
そこに大きな疑問を抱くが
話が長くなるので割愛。

では先のタイトルにある
メリーゴーランドとはなんぞや、から
考えてみよう。

メリーゴーランドのイメージ


遊園地にある回転木馬の呼び名、
というイメージは
あの映画でどのような意味合いに
結び付くのだろうか
ということである。

回転木馬であるならば
文字通り回転運動、
円運動をイメージ出来る。

物理学的には
円運動を2次元座標軸に描写した時
波形を描く。

「主人公であるソフィーが少女になったり
おばあさんになったりする様を表した言葉」
とは今日の団員の意見だった。

ソフィーが魔法で姿を変えられて
少女からおばあさんに変身してしまう。

魔法を解くためにソフィーは旅に出た。
しかし彼女は無意識下に
少女に戻ることがある。

本来の自分自身を
取り戻し自信に満ちた時だ。

ハウルを想って真っ直ぐに、
心のためらいや不安も迷いも感じない時。

なので一見、
ハウルに恋している瞬間
魔法が解けているようにも見える。

ソフィーの心の揺らぎを
波の振幅のように見ていくと
見方を変えればそれは確かに
円を描くように見えるのだろう。

ソフィーの心と魔法


物語の終盤を思い出して欲しい。

カルシファーの元気がなくなり
カルシファーとハウルの契約が
つまり双方の生命が危ぶまれる。

城の皆を救おうと水をかけたソフィーだが
自分のせいで他者が犠牲となり
生命の危険にさらしてしまったのだ。

ひどくショックを受け
立ち直ることも困難なほど
ソフィーは傷つく。

ソフィーの願いは
もう一度カルシファーの炎が
燃え盛ることだ。

つまりそれは
ハウル自身が
生き生きと暮らすことに
他ならない。

カルシファーとハウルは
まるで鏡のような両者である。
契約しているのだから当然ではある。
だがソフィーもハウルも
共に自分に自信が持てない。
この両者もまた鏡のような存在だ。

映画と円運動


映画はかつて
活動写真と呼ばれていた。

パラパラ漫画のようなコマ送りから
映像技術は発展していく。
アニメーションもしかりだ。

フィルムをくるくると回して
物語が進むように。

メリーゴーランドも
くるくると回り続ける。

人生が円運動のループから
抜け出せないだろうか。
円でも波形でもなく
ボクは螺旋状の運動だと思う。

螺旋階段のようにくるくると回りながら
上に向かって時間が進んでいく。

ソフィーの心が傷つき
閉ざしてしまいそうな時

ハウルもまた
心を閉ざしていく。

ハウルの心の中に
入り込んだソフィーは
過去のハウルとカルシファーを目撃する。

螺旋階段を転げ落ち
偶然にも過去の世界へ、
時間の狭間に迷い込んだソフィーは
力強く叫ぶ。
「私はソフィー。」と。

幼いハウルとカルシファーは
その記憶を持っていたので
やがてはソフィーと出逢い旅に出た、
というのが物語の冒頭に繋がる部分。

勿論これはボク自身の解釈だ。

一見するとパラドックスに見えるが
矛盾しないように円環しているのだ。
まるでメリーゴーランドのように。

円環の物語とおとぎ話


おとぎ話というものは
往々にして何度も何度も
聞かされるものだろう。

くるくる回るメリーゴーランドのように。
何度も何度も同じ話を繰り返し繰り返し
伝えられる。

円環はおとぎ話、つまり
伝説につきものの形である。

映画の「ナウシカ」でもナウシカ自身が
蒼き衣を纏った者として
王蟲の待つ金色の野に降り立ち
失われた大地との絆を結び
再び人々を清浄の地へと導いた。
円環が成立して映画は結ぶ。
再生の物語だ。

ハウルも怖がらずに先生の元に向かう。
自信を持てなかったソフィーは
いつしか自分の髪を切り
カルシファーを、ハウルを生き返らせる契約を結ぶ。

魔法によって運命を変えられた少女は
魔法と、呪いと共に生きることを選んだ。
だからソフィーの髪の色は元に戻らず
輝くような淡い色のままだった。
魔法の世界に足を踏み入れた時間を
なかったことにはせず
想い出と共に
人生を歩んでいくと決意したのだ。

いつか離れる日が来て

想い出のうちに貴方のいない時が
やってきたとしても

風となり頬に触れたら

いつまでも消えず
寄り添い続けていくことで

ソフィーもハウルも
生き続けていくのだろう。

くるくると回り進んでいく
メリーゴーランドは

移動遊園地のように
旅を続けていく。

新たな地に寄り
語り部がアコーディオン片手に
話を始めるのだろう。
さあさあ寄ってらっしゃいと言わんばかりに。
ハウルとソフィーの話を。

それが
「人生のメリーゴーランド」であって
あの映画がその曲で終わる理由だと
ボクは思うのだ。

あとがき


原作は未読だ。
全く違うと言われているが
どうなのだろう。

「カリオストロ」で
ルパンのイメージを変えてしまった
宮崎駿氏だから、
同じように
違うイメージの作品なのだとは思う。

ワルツもまた円を描くし、
楽曲自体も輪舞曲(ロンド形式)だ。
ソフィーやハウルの心の機微を
描いている音楽。
喜び高らかに宙を舞い
哀しみ深く沈み込むのを
幾度も繰り返し
幾重にも連ねていく。

ざっとこんなイメージだ。
ま、あくまでもボク自身の解釈だけどね。

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