見出し画像

作る人、それを評価する人

今日もひとりで、ラーメンを食べに行ってきた。チャーハンも食べた。私はラーメンを食べ比べるのが好きだ。自分の中でどこの店のラーメンが美味いと批評するのが好きだ。今日のラーメンとチャーハンは美味かったが、特に人に勧める味ではなかった。そういう感想を持ちながら食べていたが、カウンターの向こう側ではこれを作った人がいる。はたして、私はラーメンを批評する資格はあるだろうか?などと考えた。私は賞味する側で、この店のラーメンはたいしたことない、などと言ったところで、自分でラーメンを作ったらこの店の足下にも及ばないだろうことは容易に想像できた。
そこで考えたのだが、私は映画が好きで、よく批評するのだが、じゃあ、私が映画を撮ったことがあるか、と言えば、ないのである。では、私に映画を批評する資格はないか、と言えば、あると思う。作り手はその現象を前提にして創作しているからだ。しかし、映画を撮ったことがない者が、プロたちが作った物を、無価値のように否定することは、作り手側としては、「じゃあ、おまえ作ってみろ」と当然言いたくなるに違いない。
私も小説を書くが、書き手として他の書き手の作品を読むと、面白いとか美しいとか思うことも当然あるが、上手いとか下手くそなどと言う感想も持ってしまう。例えば私がラーメン屋の職人で、他のラーメン屋のラーメンを食べるかのように、他の作家の小説を読む。他の書き手の良い所を盗もうという視点もある。それはただの読み手にはない視点だと思う。私は小説ではストーリー重視の書き手であって、文章の美しさは二の次という意識でいる。もちろん、文章は美しいに限る。しかし、文章が美しくてもストーリーがつまらない作品は小説としてはやはりつまらない作品だと思う。文学賞の選評で「美しい文章でした」などというのがあるが、それは映画を観て「美しい映像でした」というのと同じだ。映画も小説も魅力的なストーリーとそれによって表現されたテーマの深さが大事だと思う。もちろん文章のうまさが、それらと表裏一体にある場合もあることは認める。
しかし、結局は、ラーメンは美味いか不味いかである。それを決めるのは、お客さんである。批評家がどう批評しようとも、ラーメンの評価を決めるのはお客さんそれぞれであり、偉い批評家の高評価や人気投票で一位になったラーメンが必ずしも美味いとは言えないのである。ラーメンの美味さは人気投票では決まらないし、有名な批評家が評価したからといって美味いわけではなく、私たちが実際に食べてみて美味いかどうかが最も重要であると思う。

ごちそうさま

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?