見出し画像

【文化論】渋谷=ディズニーランド

今日、久しぶりに街に出た。
街と言っても地方都市なのだが、今回の記事は渋谷を論じたいと思う。
なぜ渋谷を論じたいと思ったか。
それは、私の大学が渋谷にあったこともあるが、それ以上に、渋谷は若者文化の発祥の地になっている点を論じてみたいと思ったからだ。
今日、出かけた街は地方都市だが、やはり若者も多くいて、渋谷の香りがした。
コスプレのブティックではメイドみたいな若い女が店員をしていた。
通りを歩いていると、爆音が聞こえたので驚いて振り返ると、いくらカネをかけたか知らないが、車高がメチャメチャ低く改造され、後部にはウイングが取り付けられてあり、車内はキラキラした装飾品でゴテゴテに飾り付けられた車だった。一回見ただけで記憶に残ったので、私はその車を二度目に見たとき、すでに見た車だなと思い出すことができた。二度目に見たときは、コンビニか何か店の前に駐車され、エンジンはかかったままで、助手席には若い女が座っていた。運転席には人の姿がなく、若い男が買い物に行っているものと思われた。その車からは、二十年くらい昔の流行歌が流れていて、私の知っている曲だった。女はその歌を口ずさんでいた。私はその着飾った女を見て、「精神病にならんのかな?」と思った。と言うのも、私が二十二歳の頃知り合った二十歳くらいの女の子で精神と知的に障害がある子がいた。髪は染めているのはもちろん、当時流行っていたピアスを耳にたくさんつけて、いつもテンションが高かった。感受性が豊かと言えば表現がいいが、私から見ると、流行に自我が負けているように見えた。
「流行に自我が負けている」うん、自分で考えた言葉だがいい言葉だ。若者はその感受性故に流行に敏感であり、流行の中で物事を考えがちだと思う。つまり、多くが渋谷や原宿を聖地とした宗教の信者であるように見える。ハロウィンやクリスマスなどはまさに若者の聖地と化す。私は、大学時代川崎市に住んでいた。そこから渋谷に通っていた。電車の中で、奇抜なファッションに身を包む女の子がひとりで乗っているのを見て、「ああ、今から原宿へ行くのだな」と私は思った記憶がある。その子は原宿では景色に溶け込むが、他では景色から浮いて見える服装をしていたからだ。当時私は、渋谷に合う女の子のファッションと原宿に合う女の子のファッションをなぜか見分けることができた。渋谷にはガングロなどと言われる顔を黒くした女の子が多かった気がする。当時は男でも日焼けサロンなどで肌を焼いていて、その不自然な黒さは都会の風俗を象徴していたように思う。ホストと呼ばれる連中はスーツを着て、肌が黒く、髪は金か銀に染めていた。
今日、見た、改造車の女も、メイド服の店員も、あるいはマッサージ店の呼び込みの男も、「街」という夢の世界にいるような気がした。「街」は中から見ると世界のすべてのようだが、外から見ると、ディズニーランドのように特殊な世界なのだ。ただ、ディズニーランドは入り口があり壁で囲まれているが、渋谷などの街は外部との境界が曖昧なのだ。
私は学生の時、自転車で川崎から渋谷に行ったことがある。そのときは渋谷に行こうと思っていたわけではないのだが、目的もなく走っていたら、坂道を降りることになり、その降りた先が、やけに人通りの多い所だと思ったら、ハチ公前交差点で、自分の降りてきた坂道が道玄坂だと気づいた。街というものは、駅などにべったり貼り付くように、群がるようにできた、異常な世界であるような気がした。当時聴いていた尾崎豊の曲で、『スクランブルロックンロール』というのがあって、その歌詞に「街からは逃げられやしねえよ」というのがあったが、私から見ると、尾崎豊はその歌を街の中で歌っていた、街に同化したようなミュージシャンであるような気がして矛盾した思いがした。
渋谷のイメージはメディアを通して、あるいは電車や車で移動する若者を通して、あるいはアパレルショップなどを通して、地方に拡散される。それはまるでディズニーランド、あの夢の国の拡散にも似ている。
夜、東京から新幹線に乗ると、ミッキーマウスなどの帽子をかぶった子供を連れた家族があったりするが、それはディズニーランドからの帰りであることがすぐに窺われる。子供たちは夢の余韻に浸っている。
渋谷にも夢がある。
ハチ公前スクランブル交差点は地方から出た若者の憧れの場所である。いつもニュースでしか見たことがなかったその聖地に立つと、ああ、俺は上京したんだなぁと思うだろう。渋谷駅に降り立った田舎者は、その田舎にはない景色に圧倒されるのだ。しかし、その田舎者はまだ、私が学生時代そうしたように、外から歩いてあるいは自転車で来たことはない。そこは閉ざされた夢の国ではなく、外の流行とは関係ない外部と緩やかに繋がっていることに気づかない。そこを夢の国と勘違いし、「流行に自我が負けてしまう」と渋谷が精神科病院の閉鎖病棟に変わることになりかねない。
また、ディズニーランドは、汚いものを排除した夢の国だが、渋谷は汚いものを美化しさえする夢の国なのだ。ディズニーランドは肛門を見せないが、渋谷は肛門を飾り立てる。汚いものまで飾り立てた街が渋谷なのだ。小さな渋谷は日本の至る所にあるし、そこには「夢」と等しい精神の病がある。「夢」は真実を覆い隠すことがある。その「夢」は若者の間に流れるいっときの嵐であり、それが過ぎ去ったときに、流行に自我が負けた自分に気づくのである。感受性豊かな年頃を生きる若者は、流行に負けず、嵐が過ぎるのを待たねばならない。二十歳で入れたタトゥーは死ぬまで消えない。流行に影響を受けるのは若者ならば当然だが、それにすべてを預けてしまうと、夢から覚めたとき、何も残らない結果となる。渋谷は私の学生時代にもあったし、二十年経った今もある。しかし、久しぶりに行ってみると全然違う街のようになっている。渋谷は蠢いていて変わりゆく存在である。私にとっての渋谷は九十年代末からゼロ年代初頭の渋谷である。実家に帰って、しばらく行かないでいたらずいぶん変わっていた。
渋谷はメディアの中にも度々登場する。その世界は追い続けようとすればいつまでも追い続けることができる。髪型を決めるとき、服を選ぶとき、いつまでも渋谷を意識するのだろうか?ディズニーランドにいつまで忠誠を誓うのだろうか?夢から覚めた女は夫よりもディズニーの王子様を愛するのか?夢から覚めた男は渋谷で知り合った妻のケバケバしさに気づいてうんざりするのだろうか?渋谷は駅周辺に群がる流行という雑居ビルと夢の中に墜ちた若い情念の坂の下の泥沼であり、坂の上には外部の「普通の」世界があるのである。
ディズニーランドにも便所がありそれは糞を流す場所であり、糞は地下に流される。その下水の上に夢の世界がある。渋谷は、その便所を隠さず飾り立てる。若者はその肛門にキスをするかどうかは慎重に考えねばならない。
肛門にキスした芸術家たち特に若者文化を先導する芸術家たちはそれを青春時代と名付けていつまでも美化しようとする。大人は渋谷を懐かしむのではなく、その中に生きるでもなく、その外部に価値を見出さねばならない。いつまでもディズニーランドにいてはならないのだ。大人には大人の夢があるべきだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?