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Re:【短編小説】少年ナイフTHE九山八海

 水面は死んだように静まり返っていた。
 水は死ぬらしい。または眠る。
「何を考えているの?」
 女が訊く。さぁな、何も考えていないよ。強いて言うなら、自分の人生の隙間についてだよ。
「ふぅん」
 女は興味なさそうに爪を弾いた。

 
 凪と言うには甘美なデッドカームは重厚な布のようだった。
 無数の生命を内包した海と言うものの恐ろしさが、黒い緞帳に似た滑らかさのすぐ下に潜んでいる気がして身震いをした。
 あの下に幾千の生命があり、こちらをぢっと見ている。
「わたしもあなたを見ているのに」
 女の黒い目が穴の様におれを誘う。
 砂浜に寄る微かな波が耳と不安をくすぐる。
 だが全ておれの妄想だ。死んだ海には何もいない。おれの隣に女はいない。


「本当に?」
 女の声が聞こえる。おれには音色が分からない。だからその声はあくまでおれが合成したものだ。
「海が怖いなら山に行きましょう」
 厭だ。
 山は海と違い実体がそこに在る。
 草木や虫、その他の生命が確実にそこにある。
 だが海はそれを覆い隠している。
 その暗い色の奥底に全ての実体を隠している。そしてその只中に入り込めば二度と出てこられない。
「だからわたしのことも好きにならないの?」
 そうかも知れない。
 おれはお前のことを何も知らないし、知らないから好きになる可能性がある。
 商売女を買うのはそいつの名前も素性も知らないし、知る必要が無いからだ。

「得体の知れないものは怖くない?」
 知る必要が無ければ構わない。
 奴らはおれを見ない。
 だが海は違う。
 得たい知れない生命の気配は山と同じだが、その隠匿された静けさは全く違う。
 夜の海は特にそうだ。
「わたしもあなたを見るから?」
 どうだろうな。
 おまえが商売女ではないから、おれはこうしてここに座っているんだ。
「なら見ていてもいい?」
 構わないよ。
 でもおれが何を言っているか分からないだろ。怖くはないのか。
「いいえ、別に」
 そうか。
 なら好きにしろ。

 死んだ様に広がる黒。
 眠る海。
 生命と言うエネルギーがその黒い皮膜の下に蠢きそれでいて静かに装って呼吸をしている。
 凝縮された生命の気配がひとつの巨大な眼となってこちらを凝視している。
 まるでそれを見ている自分が最初からその一部であったかのように。
「つまんねぇんだよ」
 女は叫ぶや否や、おれの精神を海によって引き剥がした。
 ぎゃあ。
 肉体と言う容器から引き剥がされた精神が苦痛でのたうち回る。
 小さく打ち寄せる静かな波に巻き込まれていく錯覚で誤魔化す。
「それは麻酔のつもり?引き剥がされたあなたの精神はどこまで行くのでしょうね?
 この死にも似た凪の海を漂い、その下にある幾千万の生命たちによって食い千切られてしまうの?」
 それともどこまでも漂いやがて溶けて無くなるの?
 女は笑う。白い八重歯が光る。
 忍び寄るように満ち始めた潮が足を舐めた。おれは苦痛に転げ回る。女の足元を。ふくらはぎが美味そうに見えた。
 それは別にこの女に限った話ではない。

「どう?何か言いたいことは?」
 AV女優とセックスがしたいです。名前も知らない美しい肉体と無責任なセックスがしたいです。好きなAV女優のピークは過ぎてしまいました。それでも構いません。もう他の男に抱かれているのはごめんです。
「さぁ、いきましょう。あなたの引き千切られた精神と同じように、肉体が攫われる前に」
 女が笑う。
 女は様々なAV女優を合成させた美しさで笑う。それはおれの憧憬だろうか。
「セックスファンタジーのひとつね。高校生の頃に制服ファックをしなかったから」
 それとも会社でセックスをしなかったから?
 この世にある全ての食事メニューを制覇出来ないように、全てのAV女優で射精することはできないの、と女が言う目はいやに悲しい。

 耳にうるさいほどの静けさ。
 それは海でありおれという虚無だ。
 凝縮された生命の気配。
 真夜中の集合住宅に眠る肉体たちでさえあれほど雄弁に気配を語らない。
 または深夜の学び舎に似ているのかも知れない。
「つまんねーんだよ」
 女が言う。
「結局はセーラー服とセックスできなかったって言いたいんだろ?」
 灰色、または白い学び舎の中に闘争領域へと飛び出す直前の情熱的で濃厚な生命エネルギーを押し込めてそれでも静かに息をしている。
 そして学び舎を見つめる人間を、かつて自分もその一部であった事をはっきりと思い出させる。
 そしてうねった波が立てる音の様に鐘が鳴り潮騒の様に声を上げて生徒たちが教室から飛び出る。
 その通りだ。
 セーラー服とセックスがしたい。

「つまんねぇ」
 女が言う。
 小麦色の肌。ローファーにルーズソックス。蛍光色の紐パンにミニスカート。短いブラウスと緩いリボン。
「つまんねぇ」
 女が言う。
 黒いヒール靴にパンツスーツ。
 ブラウスと入館証。
「つまんねぇ」
 女が言う。
 競泳水着。バイト先の制服。穴の開いたパンツ。
「そんなに良いもの?」
 手に入らないからな。ファンタジーはファンタジーのままだ。やってしまえばどうってことないさ。
「隙間は埋まらない」
 そうだろ。絶対に埋まりっこない。
 その隙間を見るから駄目なんだ。
「死ぬか」
 そうしよう。

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