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Re:【小説】三千世界レイヴン殺し残響ラヴァーズ朝寝

 女が死んだ。自殺だった。
 それは父親と同じく飛び込み自殺であった。父親が死んだのと同じ駅で父親が死んだのと同じ時間の特急電車に同じよう飛び込んだ。
「女の父親が死んだ理由は知らない。ただ女は誇りの為に死んだ」
 おれはぬるくなったビールを飲み干して缶を握りつぶした。
「死に誇りはあるの?」
 香り付きのスピリタスを飲んでいる彼女の目は胡乱だった。
「あるさ。飼い犬に手を噛まれたんだからな」
 煙草を探す。
 やめたのを忘れていた。
「飼い犬?」
「その女はボンテージを着てたのさ」
 レザーのボンテージだよ、と言うと彼女は事情を察してスピリタスを飲んだ。
「死ななきゃならないのね」
「主従関係の逆転は存在の死だからな」
 狭い界隈なら尚更だ。
 後ろ指をさされても生きるほど価値のある世界では無い。
 女王が死んで物語を終わらせる方がいい。
「犬の方は?どうしたの?」
「さぁな。そいつは落語家の領分だ」
 煙草を買いに行こう、禁煙は終わりだ。
 そう言うと彼女は鼻を鳴らした。
 おれはお前との人生を削ってでも俺としての生を生きて死を死ぬんだよ。
「女王が死ぬ意味を理解できたのは死んでから十年過ぎた頃だよ」
 4月の風に煙が漂う。
「最近なのね」
 新しく買ったスピリタスを飲んだ彼女はご機嫌だった。
「おれ自身も生きている事が素晴らしいとは思わないし生きていれば良い事があるとも信じていない」
 生きる事は苦しむ事だ。
 そして日々とはその苦痛に慣れる為の時間だ。


 鴉が鳴いた。

「それは本当なの」
 女がほとんど唇を開かずに煙草を咥えて火をつけた。
 煙がひとつの塊となって俺との間を転がっていった。
 西部劇で見た、砂漠を転がる草の塊に似ていると思った。
 女がそっと灰皿叩くのと同時に、その煙の塊は散っていく。
 女が持っている煙草はフィルターの余分に伸びた紙が潰されていた。
「嘘を言ったって仕方がないだろう」
「いくらでもいるよ、嘘をつくひとなんて」
 女は煙草を灰皿に置いたまま、俺を浴槽に招いた。
「仮初めの恋だからな」
 俺も煙草を置いて浴槽に向かう。
 煙が転がらなかった。
 彼女は湯舟で潜望鏡を咥えた。
 俺は天井を見ながら言った。
 「さっきの水揚げは嘘だよ」
 女は顔を上げて「知ってた」と笑った。


 鴉が鳴いた。


 
「なんであんな男と付き合ってたのか信じられない」
 金髪の男が唇の端に泡を溜めながら憎々し気に言った。
 鞄の中から取り出したペットボトルには安い焼酎が詰められていた。
 それをジョッキに注いでチェーンの居酒屋が出す薄い酎ハイの濃度を上げるのを僕は黙って見ていた。
 皿の上の餃子は綺麗に3つずつに分かれている。軟骨揚げの数はかぞえるのだろうか。
「だから処女じゃないと厭なんだ」
 僕はそう言う彼の血走った目を見ずにコーラをひとくち飲んだ。
「でも自分より優れた男の元カノなら良いんだろ」
「理論上は構わないけどそんな女は俺を選ばない」
 彼は馬鹿にしたように言ったけれど、それは自分に向けたものか僕に向けたものかわからなかった。
「結局は自分の価値が曖昧になるから厭なんだろ」
 僕は呟いた。
 彼の為に鳴く鴉はいなかった。
 

 学生食堂で定食を食べながら本を読んでいると、机の向かいに同じサークルの女が定食のお盆を置いて座った。
 本から顔を上げると女は綺麗に口角を上げて笑う。
「どうしたの」
 ため息をつかないように本を閉じて訊いた。
「偶然みつけたから」
「嘘だろ、ぼくがいつもここにいるのは知ってるじゃん」
「バレてたか」
 女が惜しみなく笑う。
 ぼくは本を机に置いて中断していた食事を再開した。
 できるだけ派手に音を立てないように、それでいて飲み込まないように、彼女の笑顔を崩さないように。
 ぼくは定食に箸をつけながら盗み見るように観察した。
 目の前の彼女は定食の赤身魚を口に運んだ。
 同じように白米を口に運びゆっくりと噛んだ。細かくなったであろう魚と米を緑茶で流し込むと
「そっちのおかず、ひとくち貰っていい?」
 と訊いた。
 ぼくは黙って頷いた。

 彼女はぼくの皿に盛られた肉とか野菜を箸の先で掴むとひょいと口に入れた。
 そしてしばらく噛んだ後にやはりお茶をひとくち飲んだ。
 ぼくもそれを見ながら冷水をひとくち飲んだ。
 彼女はすっかり飲み下すと相貌を崩す。
「ありがとう!美味しかった!お礼にこっちのおかず、ひとつあげる」
 いや、いいよと言いかけるより早く彼女は自身の皿にある魚を摘むと「くち、あけて」と言った。
 ぼくは少し考えた後で口を開いた。
「あーん」
 彼女がぼくの口の中に刺身を置いた。

 ぼくは彼女の箸を舐らない様に気をつけて口を閉じた。
 そして三回ほど噛んだ後で、咀嚼の回数が多過ぎないか気にしながら冷水で飲み込んだ。
 食堂には人が少なかった。
「付き合ってくれよ」
 ぼくはコップをお盆の上に置きながら、できるだけゆっくりと言った。
「ごめん、そういうんじゃないんだ」
 女は笑みを消して言った。


 鴉が鳴いた。

「むかし知らない人にレイプされた事があるけど平気だよ」
 女は制服を着ながら言った。
「初めてじゃないなら良いよ」
 女はワンピースを被りながら言った。
「誘ってくれてありがとう」
 女は薬指のリングを外しながら言った。
「帰ってから君の文章を旦那と呼んで嘲笑ったよ」

 夜明けのつもりだがそれは夕暮れかも知れない。
 奴らがなぜ鳴くかは知らない。
 だが鳴き声が聞こえる。
 お前は眠らない。
 俺はそこでお前と下らない死を迎えるべきだったかも知れない。
 もう殺すだけの鴉は生きていなかったように思う。
 夜が来ない。
 朝も来ない。
 俺は永遠の昼間にいた。それはつまり永遠の夜だ。

 もう鴉は鳴かない。

「愛していますよ」
 女は言った。
 そしてどこかに消えた。
 愛しているよ、俺の言葉はこの部屋から出る事が無い。
 籠の中の烏は嗤う。
 フローリングの床を転げ、埃にまみれ、煙草の先で赤く光って煙と共に換気扇に飲まれて消えていく。
「愛していますよ」
 女の言葉だけが俺の頭蓋で転げまわる。
 女の言葉だけが耳の奥に残る。

 俺は鴉から手を放す。
 黒い影が羽ばたく。
 俺には鴉の鳴き声が聞こえない。
 お前には聞こえているのか。カーテンの隙間から射し込む光が朝陽なのか月光なのかも分からないが、その白い光は俺の首に伸びていた。
 鴉はお前の首に影を落とすだろうか。
 いつか海に入る事があったならば、お前は最後まで手を放さないでいてくれるだろう。

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