Re:【小説】魔魔04~少女Aの場合~
「時間だ」
それは有無を言わせず、しかし高圧的とまでは言えない声でそう言った。
「もう食べないで済むのね」
それならそれで良いと思った。
助かったんだ。
最後に食べたかったのはなんだっけ……。
✳︎✳︎✳︎
顔を上げてため息をつく。
吐き戻した黄色い半固形物が白い便器の底に沈んでいるのが見えた。
トイレットペーパーで口の周りを拭って便器を流す。レバーを捻って水を流すと飛沫が顔を濡らした。
トイレが饐えた臭いで満たされる。
疲れている。
我慢する事にも吐き戻す事にも疲れている。
走る事にも疲れている。
食べる事にも疲れている。
生きていくことに疲れた。
洗面所で口をゆすいで薄汚れた水を吐き出す。冷たい水が歯にしみる。
顔を洗う。
顔を上げると鏡に自分とよく似たものが写っていた。
その鏡に映っている顔は亡者の様になっている。
よく似た誰か。
歯が細くなり始めている。
饐えた臭いにも馴れた鼻が歪んで見える。
肌荒れも酷い。
目に力も入っていない。
全てが憎い。それなのに脳裏には早くも食べたいものが踊り始めている。
疲れてベッドに横になる。
また食べてしまったと思う。
制御が出来ない。
食べたい。だが食べれば太る。
さっきのだってそうだ。全てを吐き出せた訳じゃないだろう。
走らなきゃと思う。
起き上がって着替える。
肌に触れるジャージの繊維すら不愉快だった。
家の周りを走る。
距離も時間も決めていない。とにかく自分が満足するまで走り続けるだけだ。
食べた分、吐き戻せなかった分だけは走らなきゃならない。
摂取したカロリーより少しでも多く走らなきゃならない。
それにまだ晩ご飯がある。
その分も走らなきゃならない。
晩ご飯。水。
晩ご飯。小さな茶碗に盛られた米。
晩ご飯。ポークソテー。
晩ご飯。サラダ。
水を飲む。
食欲がでない。
サラダ、そのレタスを齧る。
食欲が出ない。
晩ご飯。
食卓についた家族は食べ進めていく。
晩ご飯。
ポークソテーを細かく賽の目に切っていく。
晩ご飯。
食べたくない。
苦痛。
父親に殴打されて晩ご飯は終った。
繰り返し。いつものことだ。
ため息。自室にこもって泣く。
疲れている。乾燥した泣き声が響く。
どこかで誰かが泣いているような感じがする。
でもそれは自分の鳴き声だ。
疲れた。何か食べたい。
深夜になって家を出る。
通いなれたコンビニに向かう。だいたいの商品は食べ終わっているし味も知っている。
それでも何か食べたいと思う。
もう疲れた。
公園の傍にある道を通って墓地にさしかかる。
不気味さが辺りを覆いつくしている。
だが脳味噌を食欲が埋め尽くしている。
足が止まらない。
道の反対側を子どもが歩いている。
最近の子どもは夜更かしだなと思う。
それともコンビニの帰りだろうか。
墓地の中を通って近道をしようとした。
これから何か食べるのだから少しでも遠回りするべきなのに、早く食べたかった。
墓地の真ん中に生えている大きな木の下に何かがうずくまっていた。
それはこちらに背を向けて空を見上げているように見えた。
犬か、人か、それともそれ以外の何かなのか。
ぼんやりとそれに見惚れていた。
そう言えば、ネットで見た事がある気がする。
公園の先にある墓地の真ん中に鬼だか悪魔だかがいる、みたいな話。
何がいるのかまでは読んでないけど。
果たして、それはそこにいた、と言う事だろうか。
「疲れただろう」
それはこちらを見ないで話しかけてきた。
「うん」
もう疲れている。終わりにできるなら終わりにしたい。
終わり。
終わりとは何なのか。
もう食べて吐きたくもない。
炊いたご飯も全部食べて、パンも全部食べて、お菓子も全部食べて、冷凍食品も全部食べて、それで吐いて、走って、おなかが空いて、コンビニで買い込んで、全部食べて、吐いて、走って、それでも晩ご飯は食べられなくて、小さく切り刻んだおかずを見て父親に殴られる。
そんな毎日が終わるのであればそれで良い。
食べたいものを食べたい。
何も気にしたくない。
太りさえしなければなんだっていい。
「なら、もう大丈夫だよ」
それは諭すでもなく煽るでもなく、単なる事実を告げるように言った。
「どういうこと」
あまりに自然だったので訊き返してしまった。
「もう何も気にすることが無いと言うことだ」
それは同じように突き放すでもなく、かと言って落ち着かせようとする訳でもない、他人行儀な距離感の声を崩さずにそう言った。
「よく、わかんない」
「そうだろうな」
それはやはり背中を向けたままだが、笑っているようだった。
気がつくとコンビニに着いて菓子パンコーナーを眺めていた。
さっきのは夢だったんだろうか。
ぼんやりと菓子パンの棚を眺める。やはり新商品は出ていない。
棚に並んでいるのは全部知っている味のパンだ。
そのいくつかをカゴに放り込む。
紙パックの野菜ジュースもカゴに入れる。
だいたいの商品の成分と言うか、カロリーとか脂質とか糖質は覚えてしまっている。
これが勉強に役立てばよかったのになと思う。
覚えようとすると覚えられないのに、覚えなくても良い事は頭から離れない。
馬鹿馬鹿しい。
カゴの中身が増えていく。
また走ればいいや、と思う。
帰る道すがらでビニール袋の中身は半分くらいに減っている。
部屋に入る頃にはさらに減っている。
そんな様子を見慣れた親も兄も別に何も言わない。
以前、スーパーで買った半額の揚げもの惣菜を食べながらケンタッキーでバーレルを買った時、店員さんは凄い顔をしていたのを覚えている。
そりゃあ驚くだろう、袋いっぱいに詰まった半額のから揚げを齧りながらケンタッキーのバーレルを買う女なんて普通じゃない。
むかしの事を思い出しながら袋の底にあった最後の菓子パンに手を伸ばす。
またやってしまったな、後で吐かなきゃなと思う。
でも眠かった。
疲れていた。
目を覚ます。
そこが病院ではない事に安心する。
次は入院だと言われていた。
それでも食べて吐いて食事を拒絶しないではいられなかった。
良かった。ここは自分の部屋だ。
机の上には食べさしの菓子パンが置いてあった。
昨夜の残りだ。
昨夜食べた大量のものを思い出す。
あぁ、走らなきゃと思う。
だけど身体が持ち上がらない。
それにどうしようもなく眠い。
疲れた。
もう、いいか。
再び眠りに落ちていく。
疲れていた。
目を覚ました。
長い夢だった。昔の事だった。昔の自分の事だった。
もうどれだけ食べても太る事が無い。
体質が変化したのだろうか。
憧れていた体質だった。吐き戻す事も、気を違えた様に走る事もしなくなった。
皿の上の料理を細かく切り分けて殴られることもなくなった。
コンビニの商品はどれもわからなくなった。
代わりにタレントとしてテレビに出るようになった。
色んなものを食べた。
食べるのは愉しい。
美味しいものは幾らでも食べたい。
それでも満足はしなかった。
食べたいものを食べていない。
目の前に出されたそれを食べているだけだった。
ずっとそうやって生活していた。
日々の仕事。
たまのオフは寝て過ごす。
起きて食べるロケ。
移動して食べる収録。
移動して食べる企画。
ロケ。収録。眠り。繰り返し。
食べるものは美味しい。
ちゃんと味がしている。味がわかる。
そうやって生活したいと思っていた時期があった。それこそあの頃に。
それでも満たされない何かがあった。
何が不満なのか自分にもわからない。
贅沢だと思う。あれだけ食べたかったと願い、食べられるようになった。
それの何が不満なのか。
あぁ、そうか。
マネージャーに言ってコンビニで車を止めてもらう。
不思議そうな顔をしていたが、たまにそういう事もあるかと言う顔で去って行った。
コンビニでありったけのパンを買い、お菓子を買い、ジュースを買った。
パンパンに詰まった袋は、家に着くころには半分になっていた。
残りの半分を胃袋に収め、ジュースを音を立てて飲み干した時に初めて満足した。
「あぁ、美味しかった」
心の底からそう思えた。
窓に映った自分は満足そうに笑っていた。菩薩の様にふくよかな顔をしていた。いや、自分の顔が満月に重なっているだけか。
伸びをした。
もう良かった。
これ以上はなにもいらない。
心地よい疲れが骨の中から全身に広がった。
耳元で声がした。
「時間だ」
久しぶりに聞いたそれの声だった。
「わかった」
頷いた。
もう終わりにできるなら、それでよかった。
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