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【短編小説】少年ナイフ THE 九山八海

 水面は死んだように静まり返っていた。
 凪と言うには甘く、それこそデッドカームと言う具合だった。海と言うものの恐ろしさが黒い重油の様な滑らかさのすぐ下に潜んでいる気がして身震いをした。
 砂浜に寄る微かな波が耳と不安をくすぐる。

 山は海と違い実体がそこに在る。
 草木や虫、その他の生命が確実にそこにある。だが海はそれを覆い隠している。
 その暗い色の奥底に全ての実体を隠している。そしてその只中に入り込めば二度と出てこられない。
 得たい知れない生命の気配は山と同じだが、その隠匿された静けさは全く違う。

 夜の海は特にそうだ。
 生命と言うエネルギーがその黒い皮膜の下に蠢きそれでいて静かに装って呼吸をしている。凝縮された生命の気配がひとつの巨大な眼となってこちらを凝視している。
 まるでそれを見ている自分が最初からその一部であったかのように。

 私の精神が海によって引き剥がされていくのを感じる。
 肉体と言う容器から引き剥がされた精神が小さく打ち寄せる静かな波に巻き込まれていく錯覚。
 引き剥がされた私の精神はどこまで行くのだろうか。この死にも似た凪の海を漂い、その下にある幾千万の生命たちによって食い千切られてしまうのだろうか。
 それともどこまでも漂いやがて溶けて無くなるのだろうか。

 忍び寄るように満ち始めた潮が足を舐めた。
 私は引き千切られた精神と同じように、肉体が攫われる前に立ち上がり浜辺を後にした。

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