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Re: 【小説】猫とチョコレート

 人生に価値があったのはいつ?
 まだヴィレッジヴァンガードの便所に首を吊る価値があった頃?
 それともハンバーガー屋がまだ高級レストランじゃなかった頃?
 それともこの人がまだ勃起できて私を抱けた頃?
 とにかくパラダイスは終わった。
 私たちは楽園を追放された。

 ずいぶん昔に通販で買った、長いバールの様なものを手にして立ち尽くす。
 たしか大雪が降った年に、アパートの階段が凍りついたから、それを割る為に買ったんだけど、これが届く頃にはもう溶けていたんだっけ。
 そして今からこれで割ろうとしているのは──。
 部屋の隅に鎖で繋がれた恋人がうずくまっている。
 変わり果てた恋人。
 いや恋人だった男は、痙攣するように身を悶えていた。






 面会室に向かう長い廊下を歩いていると、何故だか急に刑務官は立ち止まり、振り向きざまに私に笑顔を見せて
「あいつと目を合わせないでくださいね」
 と言った。
 刑務官の目は笑っていなかった。
 私は黙って頷くと、先を歩く刑務官の後に続いた。


 無機質と言えば当たり前なのだが、何もない廊下は薄暗く冷たい印象を受けた。
 生活に関係のない、移動の為だけにある廊下と言うのはこうも陰鬱な印象なんだろうか。
 絵だとかポスターが貼ってある訳でもなく、職場の様に掲示物がある訳でもない。
 さらに言えば消火栓だとか配線物を通したり整備するパネルも無いし、通気口や換気口も無い。
 ただ四角い空間が奥へと伸びている。
 なんとなく、どこかの寺か神社で入った胎内巡りに似ていると思った。


 その薄暗い廊下を刑務官に続いてしばらく歩に、一番奥の扉に行き当たった。
 重々しい鉄扉はとても頑丈そうだが、やはり陰鬱な雰囲気を与えている。
 何となく怖くなり後ろを振り向くと、自分が入ってきたゲートが案外と近くてすこし安心した。
「もっと長く歩いたと思いましたよね」
 刑務官が見透かすように笑った。
 隠す必要もないので肯定すると、
「私も一番最初にここを歩いた時は同じでした」
 そう言いながら、刑務官は幾つかの鍵を操作した。

 刑務官が監視カメラに向かって手でサインを送ったり、備え付けてある受話器で何かを伝えたりすると、ようやく鉄扉が開いた。

 太い鉄柵が互い違いの二重構造になった檻の中に、元精神科医の男がいた。
 両腕を交差させる拘束具を着て、マスクとコルセットが一体となったものも装着している。
 昆虫図鑑でみた毒虫のようだった。
 その凶悪な毒虫は立たされているのかと思ったが、それはどうやらそういった台に身体を固定されているようである。


 先ほど刑務官が言ったように、目を合わせないようにしてその男の正面に立った。
 顎先から喉元あたりにかけて視線を送る。
 しかし私が毒虫の男を見ていなくても、中の男は私を射る様に見ている気配がした。
 まるで全身を貫く様な威圧感がある。
 怖気という怖気が背骨を駆け上がり、思わず身震いをしてしまう。


「相談があるんだってね」
 男は意外にも柔らかい声で私に問いかけた。
 思わず顔を上げて視線を合わせそうになったが、どうにか堪えて私は顔を伏せたまま「はい、その通りです」と答えた。
 私は拘束具を着た元精神科医の毒虫男のつま先を見ながら
「恋人がゾンビになってしまった」
 と言うと、彼は即座に
「それの何が問題で君の相談は何なのか」
 と訊いた。


 私は彼がなにを訊いているのか理解できずにいた。
 毒虫の爪先がリズミカルに動く。
 そのリズムにのせるように男は切りだした。
「君の恋人がゾンビになった、と言う事は既に死んでいるという事だ。
 心臓は停止している。新陳代謝もない。
 完全な死だ。
 私のところへ相談に来たんだから、もうかなりの日数が経っているのだろう?
 と言うことは、腐敗も著しく進行している」
 彼はここで言葉を切った。

 私は彼が返事を求めていることに気がついて
「その通りです」
 と答えた。
 止まっていた彼のつま先が再び動き出す。愉快そうな動きだった。
「そのゾンビになった君の恋人は、君の家かどこかで鎖にでも繋いで飼育してるのかね?」
「その通りです」
「自分破壊する事も誰かに破壊させる事もできない。それで私のところにきた。何か解決する方法が無いかと」
「はい」
 そこで彼のつま先はまた動きを止めた。

 
「解決方法は幾らでもある。
 君が私のところへ来る時に家に火を放つだとか、鎖を外して家のドアも開けておくとかね。
 まぁ案外、君の部屋から出ないかも知れない。生前の執着と言うものが、どうしてか停止して腐敗した脳味噌によって促されるらしいから。
 いや、案外と筋肉だとかに植え付けられた記憶なのかも知れないね。私はそんなものを信じてはいないが」
「あの」
 彼のつま先が激しく動く。
 パタパタと乾いた音が響く。


「君にももうわかっているはずだ、解決するのは彼の状態ではなく自分の方なのだと」
 パタパタ。
「だから私のところに来た」
 パタパタパタパタ。
「彼を破壊する覚悟が欲しい。破戒してから懺悔室で詐欺師に赦しを乞うのでは無く、破壊する事に罪を憶えたくないから私のところへ来て、その正当性だとか仕方なさを自分に当て嵌めたかった」
 パタパタパタパタパタパタパタパタ。
 わかっている、挑発だ。
 苛立って目を合わせたらお終いだ。


「だから私に相談している」
「……えぇ」
「その通りだ、もう君は彼を破壊するしかない。
 君の手で破壊するかほかの誰かに殺してもらうか、そこに大きな差はない。
 その事に加担する、それを君自身が許せるかどうかだ。まずは君自身がそれを認めるところからこの相談を始めよう」
 動けるはずの無い元精神科医の男が語るその言葉に、私は飲み込まれていた。
 そしてこの男が言う通り、私は私がどうするべきかを既に理解していた。





 部屋の隅でうずくまる恋人を見つめる。
 彼に価値があったのはいつまで?
 勃起して私を抱けた頃?
 仕事をして稼いでいた頃?
 美味しそうに私の作ったご飯を食べていた頃?
 バールを振りかぶる。
 とにかく、パラダイスはそこにある。
 楽園は、すぐそこだ。

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