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【小説】さよならごっこ

 それは野良猫では無かった。
 前を向いた首のほか左右にふたつの首を下げたケルベロスだった。
 垂直に伸びた四肢が地面に刺さる様に立っていた。
 おれを睨みつけるような目は怒っているのか憎んでいるのか分からなかった。
 地面を見る目は後悔しているのか泣いているのか分からなかった。
 空を見る目は何かを探しているのか諦めているのか分からなかった。
 ケルベロスは真ん中の首に古びた革製の首輪をしていた。
 だがリードはなかった。

 そこは再開発が飽和した学生街だった。
 そこはアンファンテリブルのいない街だった。
 だからなんの心配もなくこうして出歩ける。
 その夜は雨が降っていた。
 ひとりで歩く夜の住宅街にケルベロスの吐息が響いた。
 誰もいない深夜だった。
 その夜は雨が降っていた。
 疲れた影を引きずる労働者もいなかった。
 誰もいない雨の降る夜だった。
 野良猫の影だけが街灯に伸びた。
 遠くの街灯を浴びた野良猫の薄い影は水平に消えた。

 いくつもの当たり前にある夜にまぎれてしまう勿体ない夜がある。
 その夜は雨の降る勿体ない夜だった。
 それはおれにとっての夜だ。
 ほかの誰かにとっての夜をおれは眠って過ごしている。
 だからこの夜は誰もいない。
 その夜を雨宿りで過ごすほかの猫の気持ちはわからない。
 野良猫の影はそう言って消えた。
 だがその野良猫はおれではなかった。
 その勿体ない夜は雨が降っていて誰もいなかった。
 だが野良猫とケルベロスがいた。
 おれはひとりではなかった。

 

 その夜は蝉の鳴き声が遠かった。 
 死の季節が終わろうとしている。
 その勿体ない外は雨が降っていた。
 秋を告げる雨だ。
 その雨に名前はまだなかった。おれが知らないだけかも知れない。
 秋を告げる雨の音が聞こえた。
 砂利の上を転げまわるような、または換気扇の下で炒め物か揚げ物をするような音がしている。
 そんな雨が降っていた夜だ。
 

 雨が降る夜だ。
 空に浮かんだ水がその場所に耐えきれなくなって落ちてきている夜だ。
 落ちこぼれた水。
 仲間はずれた水。
 さようならは言えただろうか。
 空から降る一億のジョナサン。
 垂直に落ちていくジョナサン。
 きりもみしながら降る雨。
 地平線の見えない街に明日は水平にやってくる。秒針が夜を刻んでいく。
 それでも明日は垂直に来ない。
 おれは水平なまま孤独だった。

 
 その夜は雨が降っていた。
 星も月も見えなかった。
 だから使い道はなかった。
 だがその使い道の無い夜を勿体ないと思った。
 ゴミ屋敷のように勿体ない夜を詰め込んだ部屋が息苦しくなった。
 おれは勿体ない夜を捨てられなかった。
 それなのにまた夜を拾いに外に出る。

 その夜は雨が降っていた。
 ビニール傘を叩く雨はやはり垂直だった。
 よふかしのうた。
 128ビートの雨。
 垂直な128ビート。
 垂直な夜。
 垂直に踏むアスファルト。
 水平に広がる水たまりと波紋。
 夜は水平だ。きっと。

 
 それはケルベロスだった。
 誰もいない雨の降る夜にケルベロスはいた。
 夜の眷属。真夜中のともだち。
 それはケルベロスだった。
 蹴飛ばせない金曜日の夜。
 刻まれていく時間。
 落ちこぼれる水と水と水。
 孤独とケルベロス。
 唸り声と倦怠。
 吐息。

 誰もいない雨が降る夜にケルベロスがいた。
 手を伸ばすと真ん中の顔は指を舐めた。
 左の首は噛みつこうとした。
 右の首は興味を示さなかった。
 細い口から広がる息は白い煙になっている。
 体毛は流れる様に生えている。
 その毛に雨が垂直に刺さっていた。
 体毛から滴る水も垂直だった。
 垂直な水滴は水たまりに刺さって円い波紋を広げている。
 それはケルベロスだった。


 それはケルベロスだった。
 使い道の無い夜。
 アンファンテリブルのいない街。
 深夜。勿体ない夜。
 刻まれている時間。時間。時間。
 時間は垂直に刻まれていく。
 時計は円く刻んでいく。
 明日は水平に時間を飲み込む。
 薙ぎ倒された垂直だった昨日までの時間。記憶。記録。

 それはケルベロスだった。
 おれの右手を食べ終わったケルベロスは口の周りを赤くしながら白い息を吐いた。
 透明な水滴と赤い水滴が垂直な角度で地面に落ちる。
 真ん中の首は手をなくしたおれの手首を舐めていた。
 赤い波紋が丸く広がる。
 垂直な水滴が赤い波紋に重なる。
 右の首は興味なさそうに遠くを見ていた。

 赤い波紋と透明な波紋がぶつかって消えた。
 勿体ない夜があった。
 勿体ない手は消えた。
 勿体ない存在は嘘だった。
 勿体ない時間が過ぎていった。
 落ちこぼれた水が降っていた。
 取りこぼされた時間が進んでいく。
 見えなくなった影は二度と現れなかった。
 繋がらない円が、あった。

 帰れない。


 無くなったおれの右手はケルベロスの中で動き回る。
 ケルベロスの心拍があがる。
 垂直な雨粒の拍子に重なる。
 そこに右手を失ったおれの心臓の拍子が重なる。
 それは音楽かもしれない。
 水滴。水滴。
 垂直。垂直。
 円環が開いて閉じた。

 繰り返す夜。おれの夜。
 勿体ない夜。おれの夜。
 勿体ない時間。おれの時間。
 繰り返す時間。おれの時間。
 おれの右手はゆっくりと再生する。
 おれの手首から垂直に伸びる右手。
 ケルベロスの隙間から垂直に落ちる水滴。
 広がる円環。
 寄せて返す波紋。
 重なる波紋。
 揺れて歪むケルベロス。
 揺れて歪む孤独。
 白い息。赤い血。群青色の夜。
 おれはひとりではなかった。

 さようなら。
 左のケルベロスが欠伸をする。
 刻まれた時間が歪んでいく。
 水たまりのケルベロスが歪んでいく。
 赤い波紋と透明な波紋が重なる。
 真ん中のケルベロスが欠伸をする。
 円い波紋が歪んでいく。
 勿体ない夜が刻まれて終わっていく。
 白い朝が群青色を侵食する。
 右のケルベロスが欠伸をする。
 右手に白い光が射さる。
 右手に白い光が水平に刺さる。
 ケルベロスの四肢は垂直のまま。
 水平に広がる水たまりは水平のまま。
 


 勿体ない夜が終わっていく。
 おれの夜が終わっていく。
 夜。夜。
 白が広がる。右手が動き出す。
 蝉が鳴く。
 水平に広がる声。
 人の生えた街。垂直な足。足。足。
 水平に飲み込まれていく。
 死の季節が終わっていく。

 夜が終わった。

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