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え、嘘だろ? おれたちがきのうまで頼りにしてきた真実は虚構にされちゃったのか!?? 狼狽文学の系譜。

現実なんてものはつくづくあっけないもの。きのうまでの真実がある日忽然と虚構にされ、新しい真実が押しつけられる。しかし、人間はそんな激変にそうそう耐えられるものではない。


たとえば、戦前育ちの日本人は「鬼畜米英、神国日本、進め一億火の玉だ!」をスローガンに戦時下の恐怖のなかで防衛戦争を闘った。ところがアメリカに二発も原爆を落とされ、1945年夏、あえなく敗戦した。そのときこれまでの常識も灰になって、GHQによって導入された新しい「常識=民主主義」が大手を振ってまかりとおるようになった。



戦争によって解放感を感じた日本人も多かったろう。GHQに言われるがままに「反省した」日本人もいた。他方、小林秀雄は言い放った、「利口な奴はたんと反省するがいい。ぼくはバカだから反省などしない。」坂口安吾は、こういうときは堕落すればいいんだ、と堕落論を書き、受難の渦中にある日本人を励ました。井伏鱒二は広島の原爆の現実を描いた『黒い雨』を書いた。戦争に従軍し、地獄を見た人たちは、戦争体験を作品の綴るようになる。




さて、三島由紀夫は戦時下に虚弱体質と誤診によって戦争に行かずに済んだことをよろこんだものの、しかし、後年そのことに苦しめられた。また三島は明るく軽薄な戦後を空虚と見なし、戦後は少しづつ憂国思想に傾斜してゆき、盾の会結成に至る。もともと三島には、英雄願望があり、崇高な死をエロティックに夢想していた。他方、あの時代、戦争に駆り出され地獄を見て来た男たちは、そんな三島と盾の会を「おもちゃの兵隊」として冷ややかな視線を投げかけた。また、戦後民主主義者・大江健三郎も三島を深く軽蔑したでしょう。なお、大江健三郎はサルトルに影響を受けた人で、かれが後年作品に導入する日本は(柳田國男に導かれて)、みずからの郷里、四国の谷間の村の過去まで遡行してしまう。こうなると戦前/戦後の葛藤は捨象されてしまう。すなわち、大江健三郎においては、欧風型現代文学によって、「あいまいな」国民国家日本の近代文学はあっさり乗り越えられてしまう。作品の見かけは違えども、しかし、村上春樹もまた同様の戦略を採用した。なお、ここには〈ローカル/普遍〉という厄介な問題がある。ローカルとは、そんなにかんたんに乗り越えられるものだろうか? また〈普遍〉をどのうように考えるか、これもまたけっして一義的ではない。




戦争は文学を変える。たとえば普仏戦争は少年ランボーを発狂寸前に追い込み、ランボーは『地獄の季節』を書いた。第二次世界大戦でドイツに占領されたフランスでは、カミュは「きょうママンが死んだ」と大騒ぎして『異邦人』を書いた。戦後のフランスのヌーヴォー・ロマンは、フランス人の精神が崩壊寸前にまで追い込まれたことを現わしてもいる。



おもえば、毛沢東の死によって文化大革命が終焉したときの、中国人たちの衝撃もまた同様の体験だったろう。



ベルリンの壁崩壊を経験したメルケルは、その時、自由の可能性を実感し、政治に目覚めた。



ソヴィエト連邦崩壊によって、ロシア人たちは精神を崩壊させただろう。



もちろんこの話題はけっしてむかしばなしにはならないでしょう。きょうの真実があしたには虚構にされてしまう。いま、そんな兆候はいたるところに現れています。新型コロナ~ワクチン問題、とっくに終わっているにもかかわらず戦争継続中と伝えられるウクライナ戦争、もはやG7が世界の少数派になってしまったこと、イスラエル国家存亡の危機を賭けたイスラエルVSハマス戦争、岸田総理が日本をディープステートに売ってしまったこと、移民問題、心配される東アジア危機。もともと性におおらかだった日本になぜか導入されたLGBTQ問題によって分断される日本・・・。



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