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英語とはなにか? 日本語とはどういう言語か? (三島由紀夫/太宰治。カポーティ/サリンジャーをめぐって。)

英語は、日常会話で取り扱い説明書みたいな言葉の使い方をする。命令文の頻度も高い。乱暴な言語だな、って中学生の頃のぼくは呆れたものだ。



もっとも、逆に言うと(本音至上主義の大阪弁は別として)、日本語で会話していると、ものいいがていねいなのはいいとして、「おまえ、ほんとはなに考えてんの?」と、相手の真意が汲み取れないことも多い。しかも、官僚も政治家も本音がわからないしゃべり方をする人が多い。立場と関係を重んじるあまり、個人というものが消えてしまいがちなのである。



たとえば、日本人はたとえ英語でビジネス・メールを書くときでさえも、歳時記さながらの季節の挨拶からはじめる人が多い。英語脳で考えると「そんなん要らんやろ、早よ本題入れ」ということにはなる。しかし、あれは(あなたとわたしは同じ季節を生きてますよ)という共通の場の設定であって、日本人のコミュニケーションにおいては、共通の場の設定がないことには会話ははじまらないのである。日本語の作法ですね。噺家が高座に上がって、客層を観察しながら小咄をいくつか振って、笑いをとって場を温めてから本題に入るのも同じこと。また、昭和の批評家のボズ・小林秀雄でさえも、古今亭志ん生のレコードを聴いて講演の練習をしたものだ。



日本人のコミュニケーションは、まず場があって、相手との関係があって、そこで主体のありようが決定される。そもそも日本語は一人称でさえも、私、ぼく、おれ、おいら、あたし、うち・・・を選択するもの。すべて場と相手との関係が至らしめるものである。そのうえ、「てまえ生国とはっしまするところ」などとも言えば、「てめえ、なに言ってやがる!」なんて使い方もある。驚くべきことに「てまえ=てめえ」は一人称にも二人称にも使えるのである。また、日本語の「彼女」は三人称の代名詞でありながら、同時に「おれの彼女♡」なんて言うときは「一般名詞」である。「彼氏」も同様ですね。「おたく」という言葉も、もともとは趣味の仲間同士の会話における、二人称に由来しています。そこにはいくらか希薄な関係性のなかで、「あなた」も「きみ」も、さらには相手の名前を呼ぶことさえもこっ恥ずかしいという含羞が感じられます。英語脳ではもはやなにがなんだかわからないカオスではあるでしょう。



日本語辞書について、あなたは広辞苑派か/新明解国語辞典派か、という話題がある。前者はおそらくPODをお手本にして、言葉を即物的かつ科学的に定義しています。対照的に、後者はあらゆる言葉を言葉の使い手の気持ちの表現と見なしていて、日本人の心をわかっているなぁ、とぼくはおもう。(もっとも、ぼく自身は、大辞林・第2版をもっとも好きだけれど。ただし、こここではそれについて話しはじめると本題から逸れるので、このへんで。)



日本語の書き手のなかでは、太宰治と橋本治が、場の設定を大事にしています。まず場をこしらえて、はじめて語りがはじまる。だからこそ、かれらの書いた本を読んでいると、読み手はみんな、まるで自分自身に向けて語られているような気持ちになって、文章に引き込まれてゆく。



もっとも、英語にだってそういう書き方もまたあって、たとえばサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とかね。だからこそあの小説は世界的なベストセラーになったわけだけれど、他方、カポーティはあの小説をくさしたものだ。カポーティはおもっただろう、その手は卑怯だぞ、って。




また、三島由紀夫は人生で一貫して愛されることを切望した人だけれど、しかしながら19世紀フランス文学育ちの三島はけっして『キャッチャー・イン・ザ・ライ』みたいな語り口はできなかった。また若き青年文士だった頃、三島はわざわざ太宰に会いに行って、「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです」と言ったものだ。太宰は「嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけた、とその場に同席した野原一夫は『回想 太宰治』のなかで書いている。ところが後年三島が書いた『私の遍歴時代』によるとそのとき太宰はこう言って笑ったとなっている、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」真相は闇のなかながら、ぼくはおもう、たとえ太宰がその場でそんなせりふを吐かなかったにせよ、しかし、三島の述懐には三島の本音が太宰に言い当てられたことへの忸怩たるおもいが吐露されているのではないかしら。おそらく三島は太宰の心の声を正しく聞いている。



夏目漱石は、I love you.を「月が綺麗ですね」と訳したそうな。ロマンティックな漢詩少年で、かつまたロンドンに国費留学してからは神経衰弱になるほど苦しんだ漱石らしい英文和訳である。なお、漱石に恋愛話はほぼないけれど、しかし、ぼくは若き日の漱石は正岡子規と恋愛関係があったのではないかしらん、と少し疑っている。




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