今日は俳句や写真でなく、私の受賞作(ネットで公開されているもの)や活動歴のリンクを自己紹介代わりに貼る。 第3回石田波郷新人賞↓ http://www7a.biglobe.ne.jp/~kimono-ins/03-isida.html 第4回星野立子新人賞↓ https://hoshinotatsukoprize.jp/archive_category/fourth/ 第一句集『一番線』(文学の森)より。(現在、作者の手元に残部なし)↓ https://iron
私は、初学の頃、地元の超結社句会に5年ほど参加(ほとんど郵便出句)していた。その超結社句会の指導者の大西静城先生に「都会の句会に出しても、総合誌に出しても、立派に通用する句を作りなさい」、「結社や句会を超えて共感を呼ぶ句を作りなさい」という助言を受けた。今でもこの言葉を胸に、私は句作を継続している(しかしながら、結社や句会を超えて共感を呼ぶような普遍性をもつ句は、昨今の総合誌には少ない。どうやら再び月並時代に入っているようである)。 大方の地方在住の俳人が、結社への勧誘
季語の選択の幅が、狭ければ狭いほど、「つきすぎ」や季語を説明しただけの句になりやすい。(初学者は特に)。 一方で、句歴が長くなり、季語の選択の幅が広がるほど、副題(傍題)季語や特殊な季語を使う傾向が見られる。また季語をやみくもに離す傾向も出る。その結果、独善的な句が多くなる。 やはり「付かず離れず」の季語を探す努力が大切である。
独学固陋といふは、初めより師なしに学ぶことを戒めたのじや。「この 筋行け」と示されて後に、又それより良い道を見付けて学ぶのが真の好 者じや。(上田秋成『異本大胆小心録』)
同年代や同じ結社の人たちばかりで、句会をしていると、言葉に対する感度がだんだんと鈍くなっていく。それは、類想句の増加や句の傾向の固定化の一因となっているように思う。さらに、いわゆる「馴れ合い」の状態がずっと続くと、句会がお話会になる(句会の参加者がこのことに気づいていないことが多い)。 「句会は同じ結社の仲間内だけ、固定メンバーだけでするものではない」(もちろん結社の指導句会の意義も十分に認めた上で)と私は思っている。新陳代謝(会員の入れ替わり)のない句会は、年功序列が
1:継続すること 継続のさまたげになるのは、結社や句会での人間関係、句会に参加する時間の問題、俳句に使うお金の問題であろう。 「結社や句会の掛け持ちはいけない。郵便出句はいけない」といったように、他者の勉強手段に干渉する人には、最初から近づかないことである。俳句は「継続」しなければ意味はないから、勉強手段の掛け持ちは、全く邪道とは思わない。
初学者向けのカルチャー教室や初学者ばかりの句会に、いつまでも参加しても、句歴5年以上の方には物足りない事だと思う。積極的に他結社のベテランの方から問題点の指摘を受けなければ、視野が広がらない。 「中級者以上向け」の「郵便出句だけでよい」「勉強手段の掛け持ち可」の超結社句会を探すのがベスト。インターネットや角川の俳句年鑑などを使って、そのような句会を調べてみると良い。 また定員などの会則がしっかりと定まっている「有料」の「中級者以上向け」のインターネット句会なら、参加
「俳句の本を読めば分かるようなことを、わざわざ指導料をとって教えたくない」、宗匠俳句をきっぱりと拒否する、一俳人としての私の信念である。私は専業俳人ではない。「実費」しか集めていない六つの超結社句会(通信句会をふくむ)を空き時間に継続的に運営しているだけである(もちろん句の問題点の指摘はしっかりと行なっている)。 中級者以上向けの超結社句会には、句歴5年以上の方しか入会していない。(すべての句会には定員と入会条件があり、「選句基準」を下げて、やみくもに会員を増やすことは
秀れた俳句は、もとより作者の有名無名に関わりない。かつまた、いつかどこかにある筈であるが、どこにあるのかは必ずしもさだかではない。隠れたそのような珠玉を見出そうとする努力は、自作することの面白さに優るとも決して劣るものではないようである。しかも見出したよろこびの珠玉は、自作にとって、なにものにも勝る栄養素を含むところが有難い。
知名度や俳句の組織での役職によって、結社や俳句大会で投句を集める、総合誌に起用される傾向が顕著である。 一方で、句会は「座の文学」、全員対等である。年功序列などの上下関係を離れ、合評するのがまっとうな句会である。俳号は本来、組織での役職から離れるための仮面である(売名活動のための道具ではなく)。 近年、俳句の組織での役職が欲しいだけの年配者が、定年退職後に、句会や結社に入会する傾向がある。「座の文学」の本質を見失ってはいけない。(俳人としての知名度、年功序列、組織
「俳句は元々月並だった」、「俳句は八割ぐらいが類想」という俳人がいる。たしかに俳諧史や各種の俳誌を見る限り、その通りだと思う。だが、私は現状の安易な肯定はしたくない。「月並」にあらがい、「類想」ではない残り二割を目指すのが、「文学」としての俳句である。 年配者の「お話し会」に等しい句会や「点取ゲーム」の延長のインターネット句会に対しても、私は安易に肯定したくない(このような句会では、句の問題点の指摘が不十分だからである)。 昨今、特定の結社への勧誘目的で、指導や選句
私は専業俳人ではないが、初学者から上級者向けの六つの超結社句会(通信句会を含む。全国から出句可)を継続的に運営している。 https://site-1906708-8669-539.mystrikingly.com/ 句会を運営してまず分かったことは、超結社(会員の所属結社や句歴は一様ではない)という性質から、会員の句歴・結社経験などによって句会をレベル別に分けなければ、会員にとって学習効果が薄いということである。 全くの初学者と句歴も結社経験も長い上級者が一つの
未知のものを発見するには、何もシンドバッドや赤毛のエリックやコペルニクスの専売特許とは限らない。発見者たり得ない人間など一人として存在しない
「負けに不思議の負けなし」という名言通り、失敗には必ず原因がある。 ○類想という失敗にも原因がある。 1:つきすぎ ×船名で呼び合う漁師鰆東風 (全体的に海に関する句材ばかり) ×透けし物透けし器に夏料理 (全体的に涼しすぎる。涼を感じさせるものばかりを詠んでいる)。 2:慣用句的な表現の安易な使用 「」部分が慣用句的な表現(=ありきたりな、陳腐な表現)といえる。 「捨て切れぬ」棚田~ 「つつがなく」免許更新~ 「汚れなき」ナースの白衣 3:俳