あの日丸めたのはお団子だけではなくて。
夜明け前のお天道様も飛び起きる大声が、
家中に響き渡る。
祖母が、私の母を探して
部屋から部屋へと歩き回る。
「ゆみ子さん、今年は米、何升炊くんだ?」
私の母(ゆみ子さん:仮名)は、
眠りを妨げられて少しムッとしながらも
律儀に答える。
「そうですねえ、
二升くらいでいいんじゃないですか?」
「そんなんじゃ足りないだろう。四升だ。」
祖母の中ではすでに答えは決まっていたらしく、
自分の考えを確認するために
母に聞いたに過ぎない。
いや、聞いたのではない。宣言だ。
今日は、米を、四升炊く。
♧
これは春のお彼岸の日に
毎年繰り返されてきた
祖母と母とのやり取りだった。
春のお彼岸の食べ物といえば、
殆どの人はぼたもちを想像することだろう。
(秋のお彼岸は萩の花が咲く頃なのでおはぎ、
春のお彼岸は牡丹の花が咲く頃なのでぼたもち、
と呼ぶ一説がある。どちらも実際は同じものだ)
だが私達にとってお彼岸の食べ物は、
祖母が用意するお彼岸団子と決まっていた。
それを作るのが慣わしとなっていた。
♧
私が高校生になる頃まで、
我が家には父方の祖母が同居していた。
毒舌で手厳しいけれど、
困った時にはとても頼りになる祖母だった。
風邪やインフルエンザで私が学校を欠席した時に、仕事をしている母に代わって看病してくれたのは、祖母だった。
祖母は
お彼岸団子を作るのは自分の使命だと
思っていた節がある。
それはそれは大量のお彼岸団子を作り、
お仏壇の前にピラミッド型に積み上げるのだ。
ピラミッドが墳墓であることを思えば、
お彼岸団子の山がピラミッド型なのも
当たらずとも遠からず、
といったところだろう。
聳えるお団子の山にウンザリしていた母は、
なんとかしてその山を小さくしたいと目論んでいたのだが、祖母にそんな話は通用しなかった。
祖母にとって
沢山あることと大きいことは、
正義なのだから。
祖母は早くに夫を亡くし、
苦労して四人の子供を大学に通わせたのだった。
繰り返しのあかぎれで傷んだ祖母の手が、
当時の暮らしの過酷さを物語っていた。
けれど、苦しい思いをしていても、
人の為には出し惜しみしない人だったと聞いた。
自分を頼ってくる人がいると、
精一杯のご馳走を作ってもてなしたらしい。
祖母は自分の夫が早世した恨み言を
よく呟いたりもしたけれど、
毎年きっちりお彼岸団子を作っていたことから、
祖母にとって夫、すなわち祖父は、
大切な人だったのだとわかる。
♧
お彼岸の日は、
何しろ朝から鼻息荒く
大張り切りの祖母なのであった。
まだ日も明けきらない早朝から
大釜で米を炊く。
なんといっても四升だ。
(四合の間違いではない)
柔らかく炊いた米を
たらいのようなすり鉢で潰してゆく。
これはなかなか根気と力のいる作業だ。
この作業のために親戚の子供たちが、
朝早くから団子部隊として集められた。
祖母が次から次へと炊くアツアツのご飯を、
母がすり鉢にほいほいと放り込む。
それを子供たちは、
すりこぎで餅つきよろしく
ついたり潰したり練ったりするのだ。
ご飯を潰す作業がひと段落すると、
今度はそれを団子の形に丸める作業が
待っている。
その日の午後になって
丸め部隊としてやってきた年上のいとこたちは、
大量のご飯の塊を見て
「ひゃあ!!」
と叫ぶのだった。
♧
お彼岸の団子部隊として集まることがなければ、
普段は全く会わないいとこもいた。
久しぶりに会ういとこたちは、
以前とは少しずつ何かが違っていた。
いつでも真っ黒に日焼けして、
外を走り回って遊んでいた瑠美ちゃんが、
ある時
花の香りのするつやつやの赤い口紅をつけて
現れた。
なんだかひどく大人びて見え、
一緒に転げ回って遊んだ幼い日は、
もう遠い昔のことになってしまったのだと
悟った。
愛嬌たっぷりな目をくりくりさせて
みんなの前でおどけて踊っていた翔太が、
小学四年生になった年のお彼岸に
ご無沙汰してます、なんて挨拶をして
皆の度胆を抜いたこともあった。
「あらあ!翔ちゃん大人になったわねえ!」
と、叔母さん達に言われて、
翔太は恥ずかしがりオーラ全開で
顔を真っ赤にしていた。
それなのにその三年後に来た時には、
無言で顎をしゃくるような挨拶をしたきり、
イヤホンで音楽を聴き
ひとりの世界に入ってしまったりするのだから、
人というのはわからないものだ。
(でもお団子はしっかり丸めていた)
みんな少しずつ大人になって、
変わってゆく。
そして変化は、大人になるばかりではない。
一升の米が入った釜を
昔は易々と持ち上げていた祖母も
めっきり腰が曲がり、
重たいものを恨めしげな眼差しで
見るようになった。
そして力仕事は、
いつのまにか
年嵩の男の子がやることになっていた。
以前の祖母なら
手を休めて遊んでいる子供がいると、
「口動かすなら、手も動かしな!
働かざる者食うべからずだよ!」
などとこっぴどく注意していたけれど、
年々細かいことを言わなくなった。
子供たちを見回してニコニコ頷きながら、
お団子が出来上がっていくのを監督していた。
小さな子が不恰好なお団子を作っても
カラカラと笑って
「まあ、それもいいさな。」
と頭を撫でていた。
小さな頭の上に置かれた
祖母の皺だらけの手を見て、
私はなぜだか泣きたいような気持ちになった。
♧
みんなでお団子を丸めていると、
その場の空気まで
甘く丸められてゆくのがわかる。
打ち粉だらけになった手で作り出される
白くて丸いお団子たち。
少しいびつだったり、シワがよっていたり。
作る人の手の大きさによって
お団子のサイズもまちまちだった。
両手のひらを上下に重ねて、
その中でころころとお団子を転がしながら、
他愛もない日常を
みんなそれぞれに話したり笑ったりする。
学校の話、部活の話、友達の話、
テストの話、飼い猫の話、家族の話。
場所の空気も
みんなの笑い声も
その時には気づかなかった
大切な瞬間も、
すべてお団子とともに
くるくるとまろやかに丸めていた。
祖母が作ってくれた、
みんなで顔を合わせるひととき。
お団子を供えられる主である祖父は、
お仏壇の中からその光景を
微笑んで見守っていたことだろう。
親戚というのは近いようで、遠い。
しょっちゅう顔を合わせている友人や
職場の同僚のほうが近い存在だと感じてしまう。
だからこそ、貴重な時間だったのだ。
今になってみると愛おしい。
来年もみんな揃って
お彼岸団子を作れる保証はない。
そのことを心のどこかで
ひとりひとりが思い浮かべていたのだと思う。
♧
出来上がったお団子は大皿に山と積まれ、
お仏壇の前にしずしずと置かれた。
皆で手を合わせて拝んだ後、
いっせいに
「いただきます。」
そこからはもうひたすらに、
お団子を食べて食べて食べまくるのだった。
ご飯の自然な甘みがぎゅっと詰まっている。
打ち粉まみれで、
どうかするとむせるほど粉っぽいものに
あたったりもした。
砂糖醤油とこし餡と。
交互につけて食べる無限ループに突入する。
ひどくシンプルなものなのに、
なぜあんなにも美味しかったのだろう。
ねっちりとした弾力に
顎が疲れてくるけれど、
食べた個数を競い合いながら
負けじと食べる。
わしわしと口いっぱいに頬張って、
どの子も満足げな顔をしている。
みんなの夢中な様子をみつめる祖母の顔は、
まるっきりの笑顔だった。
誰かがそこにいてくれる喜び。
みんなで作る楽しさ。
それらがお団子の中にも練り込まれて、
美味しさがプラスされていた。
この時間は決して永遠じゃない。
お彼岸という特別な日、
家族たちが集う賑やかな場所に、
あの世から帰ってきた人も加わり
食べて笑う。
みんなで作ったものを
みんなで食べる。
時間を越えた昔からの繋がりを感じながら、
一緒に時を過ごした。
♧
♧
祖母は
私達家族との同居をやめて
違う親戚の家に行ってからは、
お団子作りをやめてしまった。
体力的にキツくなったのだという。
かわりに作ろうかと誰かが言っても、
首を縦に振らなかった。
自分がやらなければ、
夫である祖父に申し訳ないと
思っていたのかもしれない。
そんな風に
ずっと祖父のことを想いながら祖母は、
九十歳まで生きた。
祖父と祖母、二人の遺影が仲良く並ぶお仏壇に、
今年のお彼岸は手作りのお団子を
お供えしてみようか。
おそらく祖母は、
あの世から手厳しくダメ出しすることだろう。
それでもきっと最後には、
顔中を皺だらけにして
「まあ、それもいいさな。」
と、ふたりしてクシャッと笑うに違いない。
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